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■ I can't help it
最終巻の文庫本を読み終えて、たいした読後感もなくそろそろ寝ようかと電気を消したところで、玄関の甲高いチャイムが鳴った。 時計を見ると午前三時に差し掛かろうとしている。おそらく外は零下だ。コンクリート作りの玄関など、恐ろしい程の冷気に満ちているに違いない。梓は何も聞かなかった事にして、布団を被った。
再び、チャイムが鳴る。頭だけ起こして、小さく舌打ちをした。今度は間を置かずに二度三度と容赦なく鳴り続ける。それでも梓は起き上がろうとしなかったが、その内スチールの玄関扉を叩くか蹴るかのような音がし始め、警察でも呼ぶかと考えたところで手にした携帯が鳴った。
「最初から鳴らせよ携帯」
小さな鍋で牛乳を火にかけながら、梓は付けたばかりの炬燵に潜る新を振り返る。
「あんまり寒いから忘れてた。何でもいいけどコタツめちゃくちゃ冷たいな」 「今付けたばっかだから我慢しな。たくさぁ、どこの酔っぱらいが部屋間違ってんのかと思ったわ」 「物騒なとこに住んでんな、灰皿どこ」 「いやお前のことだから。灰皿が本棚にあるわけないだろどこ探してんだよ。じゃなくて、ない、ないわうちにそんなん」 「なんでないの」 「なんでって」
通りすがりの雑貨屋で昔に聖と買ったステンの灰皿は、先週の缶の日に捨てた。梓は煙草を呑まないので捨てたことで何も困らない。部屋の中に当たり前にありすぎる灰皿を、衝動的に捨ててしまったがその理由を問われても何と言っていいかわからない。 目に見える物からまず消したかったというのは何だか似合わない感傷に感じて、梓は何を言うことも出来ない。
口をつぐんだ梓を、新は静かに見る。黙ったままダウンのポケットから取り出したジョージア微糖とマルボロの緑を、テーブルに置いてあくまで寛ごうとしているようだった。
「何出してんだよ」 「缶コーヒー」 「……人がココア入れてやってんのにそれなくね?」 「灰皿ないんだろ」
プルタブを開ける固そうな音がする。新は何も言わず、何も聞かない。それは優しいからじゃなくて、面倒くさいからだろうと梓は思っている。
「だいたいお前、何しに来たんだよ。時間考えたらどんな急用でも明日にするだろ」 「あ?あー用事な。別になかったんだけどさあ。……まあ、ついで?」 「何のだよ」 「DVD返すの」 「死ね、マジで」
出来上がったココアをマグカップに注ぎ、新の隣に潜り込んでことりと置いてこれでもかと顔をしかめる。赤のベースに白で雪の結晶が描かれているこちらは、昨日大学の近くのカフェで買ったばかりの新品だ。
「狭い。なに、邪魔なんだけど」 「寒いんだよ」 「理由になんの、それ」 「なるだろそりゃ。人の安眠妨害しといて文句言ってんなよ」
梓は笑って先にココアに口を付け、やたらと甘かった飲み物に少し噎せる。 新は火を点けた煙草を吸い、おおそうかじゃあ仕方ねえなと煙を吐いている。そうしている内炬燵はすっかり暖まり眠たくなった梓は、新の肩にもたれ掛かり目を閉じた。
「眠いなら寝れば。お前明日一限から?」 「うん」 「出んの」 「そのつもりだけど行けるかなあ」
眠そうなまま梓は手を伸ばせばすぐに届くベッドから、柔らかな毛足の毛布を引き出して肩から被る。
「ここで寝んのかよ」 「いーじゃんか。ねぇハニー、あたし今夜は貴方から少しも離れたくないの。そうね、一センチもよ」
しがみつくように抱き付いて、いつもより高い声で囁いた声に、新はいつもは絶対しないような甘い顔で微笑んでから顔を近付けて囁き返す。
「エンジェル、それが本当に僕に告げる台詞なら例えようもない歓びだね」 「ばーか」
梓は笑い転げてカーペットに体を横たえ、新は無表情に戻って相変わらず煙草を吸っている。
部屋の空気は今だ冷えていて、静かだ。ココアは半透明の湯気を上らせ甘い香りをたてて、梓は同じことをずっと考えないようにしている。
隣にある体温は梓より温かい。いつも通り背中を丸くして煙を吐き出す横顔は数少ない友人達が言うようにとても整っている。黙ってむくりと起き上がると、再びくっついて距離をなくす。新はやはり何も言わず、梓に好きにさせている。 丁度良い位置にある肩が、梓の眠気をまた誘ってとても良い気持ちにさせる。ココアの甘い匂いが離れない。
「あたし、貴方と一緒ならギロチン台の上でも平気よ」 「可愛い子猫。奇遇だね、僕もそう言おうと思っていたところだ、断首台の上さえ君がいるのなら僕の天国さ」
煙草を吸い終えた新は少し冷めてしまったマグカップを両の手のひらで包むように持ち、やっぱり無表情でそう言った。
【END】
2011年03月04日(金)
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