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■ 鏡
突然の来訪。叔父と母。僕はキリヤと二人がいいのに。
みぎがわにはぼく。ひだりがわにはおとうと。まんなかは からっぽ。
ベルが鳴った時、とても嫌な予感がした。
キリヤと僕は帰って来たばかりで、まだ体中に冷気を纏ったままで。
玄関を閉め終えた途端の来客なんて、見計らい過ぎている。
「…はい」
扉越しに返事をすれば、「いるかい?」と聞きなれた声がした。
隣にいたキリヤが何事か呟く。たぶん、悪態だろう。
仕方なく開けた扉から割り込むようにして、二人の人間が入ってくる。
久しぶりに見る、叔父と母さんの姿に自然と目を細めた。
電話をとらなくなって半年、痺れを切らしてこちらに来たに違いない。
いつだって用件は同じ。家へ帰ってきてくれ。
彼らはいつだって、同じことを繰り返す。
僕らは帰らない。いつもと同じことを吐き出した。けれど、叔父さんは僅かに眉を寄せただけで。
いつもみたいに、そうか、と溜息を落とすことはなかった。
「高校だって休学したままだろう? どうする気だ」
「高校なんて、行きたくない」
「そういうわけにはいかないだろう」
「じゃあ、こっちで探す。――僕は。キリヤと、二人がいいんだ」
叔父さんは困ったように、母さんと僕を見比べる。
久しぶりに見た母さんは、随分と痩せたようだった。
隣に立つキリヤが軽く舌打ちしたのが聞こえた。
肩に載せられた手に、力が込められたのがわかる。宥めるように、その手に掌を重ねた。
昔から背の高い叔父さんは、小さい子供を諭すような優しい目で僕を見下ろす。
不思議とそれに、居心地の悪さを感じた。
それは僕自身の気持ちではない。隣に立つキリヤの感情が伝染するのだ。
彼は昔からこの叔父さんと母さんが、一緒にいるのを毛嫌いしていた。
『あいつもあの女も最低だ。お前も近付くな』
幾度となくそんなことを言って、僕を困らせた。
叔父さんはとても優しくて、嫌なことなんて一度だってしたことがないのに。
ましてや母さんを『あの女』と呼ぶキリヤの気持ちが分からなかった。
『何言ってんだよ、あいつら父さんを裏切って――』
そっとキリヤを見れば、不機嫌な顔で母さんと叔父さんを見ている。
僕は高校なんて、別に行かなくてもいい。キリヤと二人が、気楽で一番いいんだ。
そりゃあ最初は追い出されるみたいにして、住んだこの部屋だったけれど。
今となっては、一番居心地の良い空間に違いない。
「そんなこと言わずに、帰っておいで」
もう一度叔父さんが言った。
「帰りたくないね」
吐き捨てるようにキリヤが呟く。どこかで、軋むような音がした。きしきし、と古い床を踏みつけたような。
「僕も、帰りたくない。キリヤと二人が――いいんだ」
実家にいた頃より、大変なことは沢山あるけど、僕らにはこの生活が一番合っている。
不意に叔父さんが僕の腕を掴んだ。
「……もうやめなさい」
手を振り払おうとすれば、低い叔父さんの声が僕の動きを止めた。
ゆるゆると叔父さんを見上げれば、彼は平素とは全く違う強張った顔で僕を見ていた。
「叔父さん?」
何故そんな目で僕をみるのだろう。それはまるで。
「もう、やめてくれないか。わざとそんな事を言っているのだろう?」
その顔は酷く物悲しくて、痛々しく見えた。
「知らねえよそんな事」
そんな事を言っては駄目だ。僕らだけで充分だってことを、彼らにわかってもらわなければならないのに。
この直情型の弟は叔父の一部始終に激昂する。
耐え切れなくなったように、母さんが泣き崩れ床に蹲った。
それが昨夜キリヤと二人で観た映画のワンシーンにあまりにも似ていたので、不意に非現実な感覚に陥った。
何かが軋む。どこかで。きしり。きしり…近付いてくる。
「でも、僕はキリヤと一緒に……二人で暮らしたいんだ」
静かな部屋の中、母さんのか細い鳴咽が響いた。
母さんは家から出ることにずっと反対だった。
それは僕が病気がちで、入退院ばかり繰り返していたせいだろうけど。
「だからあたしは嫌だったのよ…! 一人にさせればこの子も落ち着くんじゃないかって克己が言うから……っ。なのにっこの子は病気なのよ、病気なのに!」
母さんが喚く。
いつから叔父さんを、名前で呼ぶようになったんだろう。
「落ち着きなさい」
叔父さんは困ったように、僕から手を離した。
「もう嫌だわ、こんなこと。世間体なんてどうでもいい、今度こそお医者さんに連れていくわ」
思いつめたように、顔を上げた母さんがこちらに歩み寄る。
その顔は酷く歪んでいて、僅かに僕に恐怖を抱かせた。
「帰って来て。お願い、帰ってきて欲しいの。今度こそあなたの話、ちゃんと聞くわ。嘘吐きなんて二度と言わない。だから――」
「母さん」
たくさんの涙を浮かべてそう言う母さんに、何て言っていいのかわからなくて僕は黙り込む。
「こいつに触んなっ」
射抜くような強さでキリヤが叫び、母さんを突き飛ばした。
「キリヤ…!? 何でそんなことするんだ。母さん、大丈夫?」
転ぶようにして床に座り込んだ母さんに、手を伸ばした。
だけど母さんは顔を強張らせたまま、僕をじっと見つめていた。
「かあさん?」
あぁ、この人はもう長い間、ろくに眠っていもいないんじゃないだろうか。
大きな目が見開かれて、僕を映す。その映像が歪みだすのに、そう時間は掛からなかった。
「もう、いい加減にしないか」
僕らと母さんの間に、叔父さんが割り込む。
「そっちのせいだろ。ふざけんなよ? いまさらじゃねえか、人を頭オカシイみたいにさんざ言っておいて」
「やめろよ、キリヤ」
「うっせえよ、てめえも黙れ。俺らが見るものを幻覚扱いするような奴らを庇うのかよ。追い出したくせに、それを今更帰れだと?」
「キリヤ!」
交互に発した僕らの台詞に、叔父さんの眉間がきゅっときつく寄った。
「…もう、やめてくれ。君は病気なんだ。家に帰ろう? ね?」
強く握った叔父さんの拳が、ゆっくり開く。
そうして僕の隣を、キリヤを指差す。
「これが何か、君は知っているだろう?」
叔父さんはキリヤを指差している。
「叔父さ、」
「わかる、だろう?」
わかるもなにも、それはキリヤだ。そんなこと、叔父さんだってわかってる、のに。
また、軋む。骨が折れるような、嫌な音が。
どうしてそんな事を、言うんだ?
軋みが酷くなる。どんどん近付いて――あぁ、違う。違うんだ。
「君は誰と話しているんだ」
問いかける言葉は僕を通り抜けて。誰と?
背筋を汗が落ちる。こんなに寒いのに。息が白いのに。
こめかみに走る、ぴりっとした痛みに目を閉じる。
軋むのは。
「キリヤ…」
開けた視界の先で、僅かにぐにゃりと歪む。貧血かもしれない。弟に縋るように振り向いた。
「キリヤ?」
彼の姿はどこにも無くて。指先の感覚が失せていく。僕は今、何を見ている?
割れた姿見が一つ。そしてそれに映る僕。
「…鏡」
「そう、鏡だ」
低い叔父さんの声が、僕に返る。
涙を流し続ける母さんの嗚咽は、遠い所から聞こえてくる。僕は今、どこにいる?
目を伏せる叔父さんの表情は、まるで不気味さに耐えかねるようで。
きしり、きし、き、し――軋む音が止む。僕の中で。
この部屋には、どうして鏡ばかりあるんだろう。
「帰ろう。君を一人でこんなところに住まわせるべきじゃなかったんだ。わかってくれ…キリヤ」
叔父さんは「僕」を悲しげに見下ろして、そう呟いた。
【END】
2010年01月05日(火)
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