蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 フキンシンHOLIC

「願いごと、ひとつだけ」



もうすぐ夏休みになる。バイトしようか、なんてチカと話してるけど、具体的に何も探せてないまま暑さだけが濃くなる。

実家に帰ったのは、そんな夏の初めの休日だった。
服を取りに戻ったのはいいけれど、思ったより時間を食ったせいで、気が付けば夕方になっていて。
今日の晩ご飯どうしよう、と考えていたところで、ママが顔を覗かせた。

「ご飯くらい食べてけば」

なんて言う言葉に二つ返事して、ダイニングの椅子を引く。
たいしてお料理好きじゃないママだけど、あたしが作るものよりははるかにまともだ。

「てつだおっかー?」

「綾が? いい、いい。あなたがやると余計に大変だから」

そんな失礼――でも間違ってはない――な言葉に膨れて腰を落ち着けた途端、見慣れないものを見つけてしまった。

「…なにこれ? 浴衣?」

壁に吊された一着の浴衣は、初めて見る柄であきらかにあたしのじゃない。っていうか、浴衣なんて持ってないし。

黒地に赤のラインがはいった生地は、可愛らしいというよりは大人っぽくてますますあたしとはかけ離れる。

「ああそうそう、それいいでしょ。綾に似合うと思って買っちゃった」

振り向けば立っていたママが、にこりと笑う。
似合う?
こういうのがあたしに?
ママは上機嫌に話し続けていて、首を傾けるあたしに気付きそうもない。

「いーよ。だってあたし、帯とか結べないもん」

買って貰った手前要らないとは言いにくい。
でも実際、着物より簡単だからって、服のように着れるわけじゃないし。
ママだって結べなかったはず。
そう言ってさりげなく要らないことをほのめかすあたしに、ママは盛大な溜め息を吐く。

「何言ってるの。篤史に着せてもらえばいいでしょ、あの子あれで美容師なんだからそれくらい簡単じゃない」

お兄ちゃんによく似た顔でそう言って、真新しい浴衣をあたしの手に押し付けた。





蒸し暑い空気を入れ替えようと窓を開けた。
昼間と違い幾分落ち着いた風が少しばかりの冷たさを伴って流れ込む。
日が沈みきって、もうあたりはすっかり暗い。
少し、体を乗り出した。

通りの向こう側に最近建った家の玄関の前に、三輪車に子供用の自転車がきれいに並んでいる。
そのカゴに結び付けられた一本の笹の葉が、さらりさらりと舞う。

「たなばた、かー…」

そういやそうだっけ。
夏の始めと言えば七夕、なんてすっかり忘れてた。
吊された色とりどりの短冊に書いてある願い事はここからじゃあ見えないけれど、きっと子供らしいお願いが書いてあるんだろう。
あたしが最後に書いた願い事はなんだったっけ。
ケーキ屋さんになりたい、とかありきたりな将来の夢でも書いたんだっけ。

窓の桟に頬を預け、暗い部屋で揺れる笹を眺めた。
さらさら、さらさら。
音がここまで聞こえるはずもないのに、涼しげな葉の擦れる音がしている気がする。

お願いごと。
もう子供じゃないけど、お願いしてもいいなら、あたしの願いはたった一つ。

――ひとつだけ。


「…電気もつけねぇで何やってんの」

「え?」

不意に後ろから掛けられた声に、慌てて振り返る。

「帰ってたのー…?」

「あ? ああ、今な」

薄暗い部屋の入り口で、目を細めるお兄ちゃんが立っている。
唇に挟んだままの煙草には火は付いてなくて、面倒臭そうにライターを弾いている。
面倒臭いなら、煙草なんてやめちゃえばいいのに。口には出来ない台詞を飲み込んで、窓を閉めようとして手を伸ばした。

「なに見てたわけ。面白いもんでもあんの」

いつのまにかすぐ後ろに来ていたお兄ちゃんの腕が、あたしを遮る。

「べつに、何にもないけど」

「ないけど?」

風が吹く。
ゆるく、やさしく。

「今日って七夕なんだなあって思っただけ、」

窓の外を見れば、変わらず揺れる笹と短冊と、色紙で作られた稚拙な飾りと。

「ごはんー…」

食べた?そう聞こうとした台詞は、あたしの唇にあてられた指に止められる。

「お前の願い事ってなに?」

小さく聞き返せば、少しだけ眉をあげて、外を顎で示される。
言われるままに見た外で視界に入るのは、やっぱり笹と――。
短冊。

長く黙っていた。でも急かされない。
考えてたわけじゃない。
唇がすぐに動かなかった。聞かれると思ってなかったから。

あたしの願いごとは一つだけ。
許されないことって、わかってるけど。
でもやっぱり、願うから。望むから。
だからお願いなの。

ずっと。ずっとずっと一緒に――。

「…居れますようにって」

呟いた台詞は途切れてしまったけれど、滑らすように撫でられる一筋の髪にお兄ちゃんの唇が触れ、あたしは息を止めた。
すぐに離れていく顔を、追うように眺める。

「じゃあしっかり願っとけ」

冗談混じりのような声でそう言って、リビングへ踵を返したお兄ちゃんを追うのも忘れ、あたしは窓を開け放したままの部屋に立ち尽くしていた。


【END】

2009年07月07日(火)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加