蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 アクアリウム5

頭が痛い。目を開けるだけで、ずきずきと痛んで、光を拒んだ。
カーテンを閉め忘れていたことに気付いても、今更閉めに行くなんて出来そうもない。こうなるのは久しぶりで、出来ればなりたくなかった感覚――二日酔い。幸い吐き気はないけれど、いつもは心地よい水槽のこぽこぽいう音さえ、耳障りだった。
何もかもが壁のように感じる。頭痛がするのは二日酔いのせいだけじゃないのはわかっている。でも、今はお酒のせいにして枕に顔を埋める。何も考えたくない。
水とモーターの音。煩わしい。全部、何もかも。
コンセントを抜いてしまおうか――なんて不穏な思考さえ過り、目を閉じた。


何度か浅い眠りを繰り返して、漸く起き上がってみれば、「四時……?」最悪だ。一日、何も出来ずにこの時間。くしゃくしゃになった髪にかきあげても、何も見えてこなかった。


今日は澤村が来る、はずだ。約束なんかしていないけれど。
それでも少し遠くのスーパーで食材を買って、いつもより豪華な食事を用意するつもりだったのに。だって誕生日なのだ、今日はあたしの。
少しくらいそんな気分を盛り上げてくれたって、罰は当たらないはず。
…それなのに。

起き上がり洗面台の鏡と向かえば、落ち込みきったような自分の顔があった。シャワーを浴びて、服に着替えて、それから薄く化粧する。髪を整え終わる頃には、夕暮れに近い時刻になっていた。

「最悪」

音にしてしまえば、尚更気分が落ち込んだ。
それらを振り払いたくて、小さな鞄を手にして、部屋を出る。エレベーターを待つ時間さえ惜しかった。まだ頭が痛んだ。なんてことだろう。よりによって今日だなんて。

自業自得だとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

今日はいつもよりご馳走を作って、さりげなくケーキも添えて、それでいつもみたいにビールをあけて。そうしたらきっと、いつもより、寂しくない、と思えるはずだった。

出来れば、澤村と一緒に乾杯したいけれど、来るかどうかは確実じゃない。だって約束さえしていない。でももしそうなれば、これ以上ないくらい幸せに違いない。例え澤村が今日と言う日が、あたしの誕生日だと知らなくても。

それでも、あたしは幸せなのだ。


決して軽快ではない足取りで玄関まで降りて来て、自動ドアがスライドしたところで「……」足を止めた。
見慣れない後ろ姿。紺のスーツを着た長身の、女の人。短くカットされた栗色の髪、そこから露になった耳に光るピアス。遠目に見ても質が良いとわかった。
着こなし方からして、とても品の良い――人。

「長谷川…由理、さんね?」

女の人が振り向き、静かな声であたしの名前を呼んだ。

背中でドアが閉まる。その物音を合図にしたように、玄関口階段を陣取っていた相手が、こちらへとやって来る。距離が狭まり、女の人の顔がよく見えるようになった。三十代、くらいの美人。見たことのない顔。

「良かった、ここで会えて。突然来てごめんなさいね、今着いたところで――。それで電話して、訪問しようと思ってたところなのよ」

ふわり、と微笑み首を傾け、女の人はバッグから封筒を取出す。

「あ、の」

頭が痛んだ。頬を撫でる風が冷たかった。あたしはこんな人を知らない。電話?なのに、この人はあたしの名前を知っていた。それどころか、この住所や番号さえも。


「顔色が悪いわ、体調が良くないの?」

あくまで上品に、女の人はそう尋ね微笑を浮かべる。疑問文なのに、確信的。三日月に弧を描く目は、何故だか憐れんでいるように見えた。新手のセールス?どうしていいかわからなくて、「あたし、いま、急いでて」
返事を待たずに、横を擦り抜けようとした。

「ね、待って頂戴」

あたしの腕を、女の人は素早く掴んで。

「あなた、主人と――澤村と付き合っているわね?」

女の人は困ったように、けれどきっぱりとそう言った。

2009年03月21日(土)
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