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■ 雪、はらり。(LOVESICK)
「うーあー…寒い…っ」
白い吐息が漏れる。 それは冬の訪れを確かに示していて、着実に時を刻んでいる事の証明だった。 深くキャップを被り直した伊聡が、もう一度「寒い」と低く呻る。
「そりゃもう十二月だもん」 「…帰りてー」 「だから帰ってんじゃん」
擦れ違った会話は、いつものことすぎて気にならない。 だいたい伊聡は、人の話をちゃんと最後まで聞けないし。忍耐力がないんだよね、たぶん。 慣れた会話のついでに当の本人を見れば、ポケットに両手を突っ込んで、首を竦めて数歩先を歩いていた。 薄雲の隙間から、ちらちらと白い物が、あたし達の間に舞って。 地面に落ちたそれは瞬時に溶けて、消えて水に変わり濡らした。 暖房の効いた心地良い電車から降り立った瞬間から、伊聡の機嫌は下降しっぱなしで、さっきからあたしはそれを宥めてばかりいる。
「もう少しなんだから我慢してよ」 「すげーしてる」 「してないよ」
あ――、なんてよくわからない声が漏れて、伊聡が振り返って。 肌の色味が無くなって青白くなった顔が、恨めしげにあたしを見た。
「寒いんだって」 「それはもう何回も聞いた。だから帰ってるんでしょ、これも何回言ったら良いわけ?」 「お前はいーよ、俺より体温高いし」 「そんなの関係ないじゃん、あたしだって寒いよ」 「違う。体温の一度なんてめちゃめちゃでかいだろ、お前三十六度以上あるし、絶対お前のほうが寒くない」
段々会話のレベルが低くなってきた、と溜め息が漏れる頃には、ちらついていた雪が本格的に降り出していた。 吐息の白が、更に濃くなった気がした。 積もらないかな。すぐに溶けてしまうような、こんな雪じゃ無理か。
「伊聡」
呼び声に仕方無さそうに振り向いた目が、あたしを見て細められる。 あたしが足を止めたせいで開いてしまった距離では、その目からは感情は読み取れなかった。
「何で立ち止まってんの」 「え? あ、だってほら、雪…」
かざした掌に落ちる白く淡い結晶。
「雪、積もらないかなぁって思って。積もって欲しいんだけどな」 「冗談」 「…ぁ、待ってってば」
また向けられる背中を追うけれど、ふうわりとした白い綿毛のような雪がどんどん降ってくるのがあまりにも綺麗で。
「止まるなって。あぁもう、寒すぎて死にそう。出掛けるんじゃなかった、こんな天気に」
足早に歩く伊聡は、あたしなんか待つ気もないようにどんどんと距離が開いていく。 恋人なのにさ。さっさと行くなんて、どうなんだろ。 手とか繋いでくれないかな、そう思うけどコートのポケットに入った掌を出してくれるとは思えない。 こんな事なら、手袋も持って来れば良かった。気温がぐっと下がり出した十二月半ば。 寒がりな伊聡を連れ出したのは、やっぱり失敗だったかもしれない。
「あたしは嬉しいけど」
寒すぎて、鼻の先の感覚が失くなるくらい寒いけど。 でも二人でいられるなら、それだけで嬉しいし。家でもいいんだけど、今までがそればかりだったせいか外に向かってしまうんだよね、欲求が。 一緒にいられれば幸せ、なんてあたしはなんて安い女なんだろう。
「なんて?」 「え」 「嬉しいって言った」 「あ、うん、言った」 「俺と居て嬉しい? 歩いてるだけでも?」
至極真面目な音に空に向けていた顔を戻せば、同じように真面目な顔をした伊聡がまた振り向いて答えを待っていた。 何を今更。
「嬉しいよ。そんなの当たり前じゃん」
やっと追い付いて、隣に立つ。 今までだって、ずっと隣を歩いて過ごしていた筈なのに、これが初めてかのように感じるのは恋人という間柄のせいなのだろうか。 そんな事を考えている内にまた歩き出す伊聡の背中を追い掛けるようにして、すっかりと濡れてしまった路面を歩いて行く。今度は後ろじゃなくて、隣を。
「じゃあ俺も嬉しい」 「じゃあ…って、何よそれ」
いつかも聞いた返し方なんだけど、と憮然と睨めばさっきとは打って変わって機嫌の直ったような顔付き。 あたしをしばらく眺めてから、思いついたように目の前に差し出される手に、どうしていいかわからなくて首を傾けた。
「手」 「え」
繋ごっか、とそう聞こえた時には、幾分冷えた掌があたしの手を握りこんでいた。
【END】
2008年10月03日(金)
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