舌の色はピンク
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| 2021年05月15日(土) |
石を叩き割ろうとする飛鳥拳 |
ろくになんもしなかった。 無為に時間が過ぎていった土曜日。
図書館には行った。 三冊借りた。いずれも社会学。 道中思ったこと。 本を読んで仕入れられる知識や仕込める知恵、眠れる知は、 実際に人と相対して得られる生きた知に比べると数段落ちる、 "だから"、 読書は素晴らしいものだ。 なにしろ人と会って時間つかって ひいひい言ってコミュニケーションして ようやく得られる知より数段落ちる程度の知を たかだか本を読むくらいのことで得られてしまうのだ。 だいたいが、そう面白い人や賢い人、 刺激のある人に囲まれているわけじゃないのだ、一般人は。 「本なんか読むより、人と話した方がずっといいよ!」 という文言は恥ずかしい。
ついでに。 本を読むなら面白くないであろう本も読んだ方がいいし、 自分に向かない本も読んだ方がいい。 偏るから。 ある程度自分の好みの領域で探していると 複数の本で似たような言説が並ぶことがあり このとき 錯覚が生じかねない。 「みんな言ってる」「どの本にもそう書いてある」 という偏向だ。 これはよろしくない。 そもそも本を読まないならいいだろうけど。
ついでに2。 人もそうだ。 面白い人や賢い人に囲まれるばかりの好環境、 あまり望ましいとは思えない。 範馬勇次郎いうところの 「薬も食らう。毒も食らう」 の精神が至高だと思う。 なにしろこの世界に生きている限りは 面白くない人や賢くない人の方が多いわけで、 そっちにも精通できてないと つまりは世界に精通できてないことになる。 知見が狭まる。
3年半くらい前だったか、 20歳のころ仲良くしていたMくんと久しぶりに会って ものすごくガッカリした。 彼は当時から バックパッカーとして世界中の国々を 何か月も旅してまわる生活を繰り返してきていて 日本で金を稼いでは飛んでたそうだけど ある時期思い立ち フィリピンでいちばんの大学に入って 経済を学び 今はビッグデータの勉強を延々している…という話を聞いた。 その半生の中で様々な 常識では考えられないような 「すごい人」 と出会ってきたそうで、 それだけにほとんどの人のことがアホに見えるのだと白状していた。 しかしよくよく話を聞いていると 彼が何のために生きてるんだかよくわからない。 優しさや慈善は結局自分のためだとか自明のことを声高に主張したりとか 芸術は教養のために学ぼうとはしたとか とりあえず年収1000万が今の目標だとか 会社員を続けてきた僕のことがバカバカしく見えるとか。 「久しぶりになんというか、普通のひとと話せて、 あ、これが普通の世界なのか、って学ばせてもらいました」 とか 「この先連絡を取り合い続けるのは構わんのですけど、 正直、今の私とでは、レベルが違いすぎて、大変ですよ」 とか まぁだいぶきつかった。 "普通"の価値や意味を解体して再構築してみたりしてこなかった人だ。 人文科学と文芸とフィクションとネット文化に触れてこなかった人だ。 20歳のころは互いに尊敬し合える仲のつもりでいたから この現実はショッキングだった。 彼には何をどう言い聞かせようとしても それが言論にとどまる限り 鼻で笑われてしまうだろう。 行動と実践を主体にしていると見なしてあげれば 彼の振る舞い彼の価値観彼の生きざまは 十分主題にしてやれる。 一応、彼のことを敵として照準合わせてはいる。 この場合の敵というのは 人生におけるアンチテーゼの意だ。
昼飯は素麺。 北斗の拳のアニメを見ながら。 ケンシロウまじでこいつ面白がって人を殺してんな。 すんなり殺せばいいのに 背中折り曲げさせたまま 硬直させて 30秒後背中が曲がりきって死ぬ って いるか? その30秒。 最高だぜケンシロウ。
夕飯は揚げ出し豆腐。 空手バカ一代を観ながら。 飛鳥拳、大きな石を拳で割ろうとする修行に入った。 大きな石は鍛えた結果拳で割ることがかなうんであって、 大きな石をただ叩き続けても それは目的達成への道筋から外れてるんじゃないか、 それ全然修行じゃないぞ、 と思うんだけど こんな理屈はどうでもよいのだ。理じゃない。 大事なことだ。
あさひなぐ読み返してる。 面白い…。 人間の妙が面白すぎる。絵もいい。
読書メーターに上記の読書についての所感を呟いてみた。
ちょっと思ったこと。「本なんて読むより生で人と触れ合った方が得られるものが大きい」みたいな言説がありますが(ありますよね)自分もまさしくそうだと思うのですが本を開く程度のことで人と触れ合って得られる知に近い知が現れるのだからこれは一種の逆説が成り立ちやはり読書には十二分に価値が認められるんじゃないでしょうか。だいたい、人と話すと得られるものが多すぎてパンクする。1分話したら3日分くらいの思考の物種が溜まる。人との触れ合いは刺激強すぎ。本ぐらいがちょうどいい。 あと「次に読む本探し」は面白そうだとか自分好みだとかの領域に限らない方がいいと思います。視点が偏向的にならないように。それに、人相手でもそうだけど、つまらない、醜い、愚かしいものに向き合っていかないとなかなか弱る。ECサイトのリコメンデーションはさいあくだと思います。ついでにサブスクも大きらいです。人の世界を勝手に狭めようとしてきやがって。個人的には本当はゴミ捨て場から拾ってくるくらいが理想です。しないけど。
そしたらひっっっっっっさしぶりにコメントがついた。
偏っちゃいけないってことなんでしょうなぁ。私は結構考えてしまう人間なので生の経験とか行動とかするする飲み下す人を羨ましく思いますけど、やっぱり生の言葉で伝えられることって曖昧さもあるし、そこに人がいることによる忖度もあるでしょうし。ある程度自分の好きに読める本は本のありがたみがあると思いますわ。それでもその言説は本に偏っちゃいけないということに対する戒めとも思いますけどね。
こっちの文意を読み取ってるのかどうか不確かですっごいレスに悩んだ。
一冊も本を読まなければいいんですけどね。今日アニメの「空手バカ一代」観たんです。そしたら主人公の飛鳥拳が山籠もりしながら、拳で石を叩き割る修行をし始めたんです。ひたすら石を叩きまくってて。…鍛えた結果として石を叩き割れるほどの屈強さや極意が会得できるのであって、ただ割れない石を叩き続けても鍛えることにはならないと思うんですけど。しかしこんなのは理屈です。無力だ。僕は飛鳥拳がうらやましい。結局飛鳥拳になれないから本など読んでいるのです。読める本を選んで。まぁ飛鳥拳は一冊の本で人生決めた空手バカなんですが。
狂ったようなレスになった。
レスを考えながら、 正しくない意見などあるだろうかと思案してみた。 どんな意見も、ある見地からは正しい。 そして発信者はその見地に立っている。 いや、正しくない意見はある。 わかりやすい例が、それを裏付けるデータに反する場合だ。 しかしそれにしてみても、 発信した「その瞬間」は、彼にとっては反していなかったのだ。 客観的事実と反していたとしても。
やはり僕は、「意見の正しさ」の可能性を支持していきたいと思う。 思案の足りない意見はある。 そもそもほとんどの意見は、思案が足りていない。 足りているといえるのは神の意見だ。 言葉が足りない意見はある。 そもそもほとんどの意見は、言葉が足りていない。 足りているといえるのは神の意見だ。 こんな論法からすれば、 やはり世間でいう「正論」なんてものは覚束ない。 相対的にはなんだって正論に祭り上げてしまえる。 絶対的に成立するのは神の論理のみだが、 思案も言葉も足り切ってる論理を、人が、 それも素人が、そのへんの村夫子が、実現できるだろうか。
引っ越しのタイミングと 新型コロナワクチン接種のタイミングがややこしい。 妻の妊娠(するかも)のタイミングも加味しないといけない。
でもすごく生を実感する。 それぞれは独立事象で、本来互いに因果関係がない。 それらの事情が複層的に絡まり合って 現在の状況をかたちづくって、 立体化な視野を必要とさせてきている。 たまんねえな。 おりゃあ角度の違う事情が絡まり合うのが大好きなんだ。 だから細雪が好きなんだ。
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