舌の色はピンク
DiaryINDEXpastwill


2015年04月01日(水) 判定文

序文
 本文書は、2014年12月に応酬された手紙の一通目送り主(以下先手)と受取人(以下後手)の約4週間に及ぶやりとりから、どちらに優勢が認められたかによる勝敗の判定とその論拠を述べるものである。なお本文執筆者は判定人と呼ぶ。


定義
 まず何をもって勝敗を分かつかを定義する。そもそも手紙の応酬に勝ち負けを持ち込もうなどとは尋常ならざる所業であるが、先手による手紙一通目の送致これ自体が余人には解し難い逸脱行為であった。手紙を送るとは一般に、情報伝達・用件の明示・所信の開陳等を目的として宛名もとへ送達する行為であり、すなわち宛名に記される貰い手の存在が不可欠である。しかしながら本件では、先手はほぼ他人の立場である後手へ、自らの身分を明らかにしないまま、かつは先方の社会的人格を看過し、剰え第三者にまつわる挿話を主軸に文をしたためた。返す刀の後手もこれに倣い、同じく自らの身分については触れずに応えた。斯くして互いの存在を虚像に据えたまま、手紙は送受されたのである。ここには、本来手紙のやりとりというコミットを成立させるための人格の了解が一切なされていない。あるいは隠されている。後手は返信において先手の人格を暴くかのごとく分析を重ねてはいるが、それも後手が書き示したとおりあくまで仮初虚構の人工的人格であり、先手の存在を決定するものではない。したがってこれらの手紙を支配する主体は対象の某かとはなりえず、常に書き手の自意識そのものである。したためられた文は自意識の延長である。そこでは文意は足場なく虚構の域を逸しえず、文体のみが実体を証明する手がかりである。したがって文意はその諷示または徴候に限るとみなし、自意識の拡張がより滑らかである方を強盛、および文体の妥当性および均一性がより整っている方を優勢として、以上を判定の基準と定義する。

細評
<一通目>
 先手による手紙。冷蔵庫の暗喩から手紙を送りつける動機付けを述べたのち、残る記述のほとんどを問わず語りの挿話が占めている。これを以て「フィクションです」の一言にまとめあげ、前文を浚い、対象を顧み、幽霊と名付けて結んでいる。それらはさも平叙されているかのような筆運びであるが、文勢は情操が豊かに、言い換えれば感情的に修飾してあり、訴えの色彩を強めている。
 結びにサルトルを呼び出してある通り、全体像として「実存」の観念を抽出している様態である。彼の思想の要軸、「実存は本質に先立つ」を真っ向から鵜呑みにすれば、先手の主題の一つ「私は何者であるか」への答えは、本質を未来に投企し……と机上の哲学的言辞を導けるのであるが、「人が物を消費するとき、人は物に消費されます。」の一文から、それで甘んじない心構えがよく現れている。
 近代思想はデカルトによるコギトの題目から自我を発見し、歩み始めたとされる。しかしデカルトの思考体系にはなお中世的教会信奉の支配が根強く、主体とは魂と換言できた。その形而上学をカントは「実体論的誤謬推理」と批判したのである。これは主体の在処を特定するものでこそなかったが、探るにあたって有力な道筋を示した。つまるところ、思考とは言語の縛りから脱し得ない文法上の仮象である。文法上に主語および人称が現れたといって、イコール実体とはならない。カントによれば自我の実体とは不可知のものである。一方サルトルは、<自我が、形相的にも質料的にも意識の内部にはないということ>(『自我の超越』より)、即ち自我とは意識の外の「ある意識にとっての対象」だと説いた。
先手にとって、「自部屋の諸々の物品」は「私の"意識される"成分」であり、「私そのもの」なくして不在のままただ「扉が開けられた」のである。「私」は形而上の領分を肯んぜず、血の気の通った、ナマの、有機的な止揚を要求している。

<二通目>
 後手による手紙。先手への牽制から始まり挑発に終わる。自身について一切触れない一方、その正体に接近させる仕掛けは行間の端々に見て取れる。分析され得る余地を自ずから披露せしめ、探りの手法を教示することで却って手管の広がりを縛り、後手の頭脳を支配しようとする腹は、隠されるまででもなく寧ろこれ見よがしに埋め込まれていよう。
先手の手紙に対してはその文に旺盛であった情操を嘲るかのごとく、息を荒らすことなく冷静に見つめており、尚且つ極めて意識的に、客観的観察による分析論というより主観的目撃による印象論に基づき、幽霊の襟ぐりを掴むことに成功している。まさしく主観の力によってのみ達成しうる越境である。奇しくも彼岸の渡り賃は三通目にて先手も指摘するところの批点と化して、いわば不良債権を負ってもしまうことになるのだが、これは後に詳述する。
 さて、文意に着目すると、先手のバルネラビリティと四つに組み、難詰している格好である。冷蔵庫の扉の例えを引き取って、最奥部に「私」の潜伏を発見していると暴きだす。「私そのもの」は手紙の上に文によって象られたという。いわゆる自己紹介に類するような明文化なぞなくとも、言葉の連なりに「私そのもの」は現れているのだと。これはまさしくドイツの文学研究者ヴォルフガング・イーザーの述べるように<語られた言葉は、語られぬままになっていることに結び付けられて、初めて言葉としての意味をもつように思える。だが語られなかった言葉は、語られた言葉のもつ含意であって、意味に形や重みを与える言述ではない。ところが、語られなかったことが読者の想像力の中で生み出されるようになると、語られた言葉は、初めに想像したよりも遥かに大きな意味の幅をおびてくる。>(『行為としての読書』)のであって、後手の想像力が、文の上の「私」を膨らませ、「己が脳内の他人」として巣を与えたのである。流動的な自我、浮動的な意識と比して、今ここに想像力は一定の方向性をもつ無尽蔵の動力源として十全に一大勢力である。その想像力を以てして、「Eは」「Sは」とのべつ幕なしまくしたてる。
 極めつけが添付の似顔絵で、オブセッションの成れの果てとも印象づけられる、いかにもおどろおどろしいタッチでの描画である。言語作用を糸口に想像力の竿で釣り上げた獲物を俎上に乗せてみせたかの如きこの一枚は、しかし逆説的に観念を開放している。「返事は要りません」とは、後手はもはや土俵を想像力の領分に限定し、意識の交流の断絶を図っているのであるが、なおも手紙を受け取り読む主体の存在を否定してはいない。なればこそ観念を閉じ込めるのならば、絵に具現させてはならない。というのも、目に見える形に落としては想像力の射程を限局させてしまい、それは新たな観念を呼び起こす。主体の存在自体を肯定するがゆえに「己が脳内」に硬直させておくべきであったひとつの実体は、姿を得て次なる手紙の発送を見つめ出した。

<三通目>
 先手による手紙。テロルの告白。自らを台風の仕掛け人と称し、後手による手紙を復讐と名付ける。後手の筆勢を狂言とみなし、私についてなどでなく貴方のことを書き綴れ、どうにかして私の感情を揺さぶれと宣う。一通目よりも情操は加速して、理念理屈を敢えて捨て置き、あるがまま自我の領土を保守している。
 「世界はとても美しい。そこに私はいません」より後に語られる夢想劇は、デリダの唱えるロゴス中心主義の極北である。ロゴスとは古代ギリシャにおいての論理や理性や言語の統一表現である。西欧形而上学では日常世界に潜む絶対的真理はロゴスによって支配されているという前提に永らく立ってきた。その前提への批判は20世紀になって漸く求められ、名だたる傑物が克服に寄与している。深淵のくだりの発言者であるニーチェの「神は死んだ」にしても、キリスト教における神を中心とした価値観から脱し、相対的な真理を探ろうとする号令である。だが先手の続く文言は、ロゴスそのもの、神そのものへの昇華を訴えている。「心は自由です」とは神の体感にほかならない。ここでいう神とは超越者でもなく創造主でもなく、絶対者でも全能者でも定言命法の主体でも不可知の象徴でも精霊でもなく、強いて挙げるなら梵我一如と呼ばれる到達点である。客体としての宇宙の根本原理は、自我の気息と一体化したとき、もはや「死」せることはない。ロゴスの限界は、神への昇華によって止揚された。「目に見えるもの」とは神の庭であり、「目に見えるものだけが全て」とは庭先から神の意識を汲み取るなという法律である。したがって「復讐は貴方が行うものではありません。私が行うものです。」より続く文句は、侮辱されたロゴスを引き合いにしての制裁、報復、意趣返しの段取りの総括である。想像力との絶縁、神との通電。自我と意識への回帰。一通目に埋め込まれていた、ナマの命題への再訴求。「貴方と私は非常によく似ている」のならば、「貴方にとっては幽霊の、私にとっては神の私」のとき「私にとっては幽霊の、貴方にとっては神の貴方」であるはずだ。先手がしたいのは幽霊の与太話ではなく神の証明である。その手続きが「貴方のドラマ、物語」の叙述ではないのか。世界にいない私とただ私でしかない私の相克は、日常から足を踏み外したところで、言葉遊びに興じている。台風の暴風圏に片足だけしか置いていない後手への「狂って」という叫びは悲しみに満ちている。 

<四通目>
 後手による手紙。詩情の宴。物語仕立てのシークエンスが続き、語りを引き受けた締めは先手への論駁で構成されている。先手の要求に則っての語りは二通目の文体と打って変わって情感に満ちている。論駁は二通目の文勢と似通ってはいても、しかし五枚に渡る語りが前口上の機能を果たして、言葉の重みが躍動に溢れ生き生きと伝わる。
 「夕子と麻菜」の物語は先手にとっては主題たりうるが後手にとっては前置きに過ぎない。あくまで向き合う相手は手紙の受け取り主であって、自己ではない。この皮肉の構造はアイロニーよりもサーカスムに近く、自分語りに枚数を割いているだけに効果的である。論及の焦点は「真実」である。虚構と対置してのそれは、後手によれば「語り継ぐ類いにおいて」「証明不可能であり」「しかし人は追い求めもしてしまう」ものである。観測対象となる真実は手垢(それは例え中身が空であろうとも!)の付着を免れえず、認識は判断に制御され、ここに虚構と同位の像を結ぶ。如何に肉薄しようとも辿り着けない真実は、虚構とトートロジーであって、疑念は意を為さないのだと。後手は尚も畳み掛ける。虚構の扱いについての指南は、自身の二通目の手口を自ずから明示して実践を促している。幽霊は幽霊でしかない。虚構かもしれない「私」も「貴方」も共存できるのなら日常もまた破壊され得ない。先手の企図を圧倒しているようである。
 結びは肉感で締められている。二通目の、言語から逸脱して描画した絵は想像力の視覚的産物であった。今回は産物ではなく現物への触覚作用である。「舐める」「触れる」といった行動についての記述は無論後手が直前に言及している「嘘」の見方への演習であるが、それ以上に、確実に現存する紙とインクに着目した点こそが返す刀の骨頂である。ここまで意識や認識といった実体の不確かな概念ばかりを取り沙汰してきた挙句の、言うなればロゴスの圏外への脱出である(当然方法的懐疑論などを持ち込めば触覚も認識の一つに過ぎない故に非確実性は否めないが、手紙に現出するものだけに単位を特定して論ずる当文ではこれに触れない)。更にはことの発端となる「部屋の物色」にも回帰する。主体により知覚されれば即時その媒体は無数の糸口を放つのだと、正気と狂気を横断する後手の息遣いには乱れがない。

判定
 先手と後手には度々論点に齟齬がみられる。解釈の仕様もあれば故意の感もある。三通目四通目は、それぞれ一通目二通目の補いともいえる。目を見張るべきはやはり自意識の喝采で、互いなりのすべで「貴方」を摘出しながら「私」に闖入させはしなかった。だが、先手の「貴方への希望」(三通目)をみごと正面から受けきってなお自意識を保った後手(四通目)には分があるといえよう。文体は三通目まで先手優勢であった。情操と論理のせめぎ合いが反立せず文の外に差し置かれている安定はロラン・バルトのいう<テクストそのものを自由に解釈する快楽>を満たすものであったし、それでいて解釈の余地を許さぬ意志的断定は文脈に担保されていた。ただ後手の四通目は先手の詩情を横領する如き筆勢であった。五通目以降がないからには、この一通の文体強度は先の三通に相当するとみて、分けとみなす。
 以上をもって、判定の基準と照らし合わせ、後手の勝ちとする。

/

昨年末に恋人が、会ったこともない僕の同僚に手紙を充てて
これまた同僚が返事をしたものだから勝負っぽくなってしまい
僕が勝敗を判定する係となったのだった。
で、だいぶ遅れたものの判定の文を書き上げた。
双方から「何を書いてるのかわからない」と言われた。
何を書いてるのかわからないのはだめだと思う。
何を書いてるのかはわかるように書くべきだった。


れどれ |MAIL