去年、7月末に流産した。 2ヶ月だった、、 突然、出血がはじまり、病院に子供を連れて急いで行き、 処置しておわりだった、、、 数分まで、おなかに居た子は、いなくなった。。。
第2子を熱望していたわけでは正直なかった。 今、いる息子だけで、私は心身ともに一杯だったから。 でも、検査薬で2かいとも陽性とわかったとき ”えらいこっちゃなあ、、無理やわ。。 産む体力はあっても、妊娠経過にリスクは大きいし(年齢的に) 生まれてから、ひとりでどうやって子供たちを世話するの?”
思い切ってここでいってしまおう。 ”とても自信がない、、完全避妊しなかった私の責任。 でも、、 自然とこの子があきらめてくれへんやろうか”
そう、、おそろしいことに、自然流産をねがった瞬間があるのだ。
出来たときはわかっている。
私は前にも述べた九州、ハウステン○スのコンテストのフラワーアレンジの コンテストに入賞し、家族とともに作品を制作しにかの地へいき、 出身校の同期とともに、生まれてはじめて、しかしはじめたころから 願っていた巨大なアレンジを制作したのだ。
技術的には未熟であったとおもう。 しかし、その達成感と充実感はいままであじわったことの ないような輝きがあった。 同行し、息子の面倒を一切をみてくれた主人も、まさか妻がやってしまう とは信じていなかったらしい。 作品そのものに関してはわからなくても、何人かのスタッフをひきいて なみいるプロの中でひとつ事をやりとげたことにすごく彼なりに 感動したらしい。 ”ママはがんばったね〜” 私は疲労困憊で口もきけないくらだったが、彼はできあがった瞬間も 審査と表彰のおわった翌日も、ひとり誰よりも興奮して、ねぎらってくれた。
その二人のお互いを尊敬し、感謝する気持ちが高まって、愛し合った夜だった。
日にちから計算すれば、その日にその子はやってきたのだ。
10日ほど”だめだ。。できない”と想う一方、 ”もし、産んだとしたら、どうしたら、2人の子と、家事をやりくりしたら いいのか”となやんでいる自分がいた。 しかし、そうかんがえる、、ということは、 ”産もう、、ということではないのか? 自分は産みたいとおもっているのではないのか? なにより、とても夫婦が愛しあい、家族3人が団結したときにやどった 子供なのだ。。 主人は、反対した。 ”ママの体力や年齢からみると、リスクが大きすぎる” ”でも、、正直私は、、やっぱり産みたいと本性はおもっているとおもう”
私たちは、話し合ったその晩、そっと愛し合った。 ”もういちど、考えてみよう、、はじめからね” そう言いあって、眠りについた。
出血がはじまったのは、次の昼からだった。
先日、ある本で ”体内に宿った子が、親が何らかの事情で、最終的に産めない、都合がつかない と告白したとき、自分の意志で母親の胎内から去るときがある、 その子は、また、時期をまってその母親に宿るかもしれないし、別の 母親の下にいくかもしれない。そうやって時期をまったりする。”
彼(あるいは彼女)は、私を恨んでいるのではないか? そう想い続けていた。 それは、その後、水子供養のお寺にお参りにいったあとにも、消えなかった。
その記事を読んだとき、ほっとした、、、というと バチがあたるだろう。 その証拠に、流産のあとに、自分個人の趣味で無理をしたことがあった。 てきめんに、目が緑内障の1歩手前の”高眼圧症”で通院をせざるをえなく なった。 いろいろ日常のことでうまくいかないこともあり、他人にたいして つまらぬ嫉妬をしたりし、大いに疲れた。
その子はこの世に生まれなかった、うんであげれなかった。 でも、今は、私を選んでほんの2ヶ月でも、体内にいてくれた ことはうれしいと想っている。 一生、忘れないとも想っている。
パパもね、、なんやかんやいいながら、あなたのことを 楽しみだったんだよ、、 だってね ”また○○(息子の名)みたいなやんちゃがひとり増えて大変だなあ、 ておもったけど、、、、”
そして病院から帰ってきた私にいいました。 ”昨日、SEXしたことを、心から後悔しているよ”
ごめんなさいね、、、でも、ありがとうね。
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