世田谷日記 〜 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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2015年09月04日(金) |
パソコン以前、パソコン以降 |
Facebookとこことでは、書く人としての気分がえらく変わるのが面白い。 これもメディア(公開するために使っているツール)が変わると、結果的に書かれたものが変わってしまう、という一例かもしれない。
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知り合いがweb上で、パソコン以前/以降で作家の文章(および物語)構築能力は変わったか?という疑問を呈していて、それに関して、私は、
おうさ、あたぼうよ!!
と、こたえたいのであります。声を大にして。
三島由紀夫、川端康成、谷崎純一郎、深澤七郎、辻邦生、森茉莉、、、 みんなPC以前の作家。機械の編集能力を使えない世界で、自分の美意識や世界観を出しきった人たち。PCは多くの人に対して、書くことについての間口を広げたけれども(あの編集機能は悪魔の発明)、それで書かれたものが質的にどうにかなったかというと、どうにもなりはしなかった。あえて言うなら、薄まった、と感じています。
加えて、ブログ、SNSの普及により、でたらめな日本語が日々大量に流出していて、これを止める手立てがない。みんなで渡ってしまえば、その言葉や用法は明日からスタンダード的なものとして広まってしまう。そういう環境で編集機能に頼った作文をすれば、、、その結果をして私は薄まったと言っているのであります。
PCのまえにワープロという段階があって、作家たちは自分に適した辞書を保持(旧字の保全など)しようとして苦労するという一季節がありましたが、それも過ぎたあとの現在です。この、手書き→ワープロ→PC という環境変化に意識的な人の書いた文章であればまだしも、という気はします。
たとえば女性の文筆家で、下書きはPCで打って、決定稿は原稿用紙に手書きするのだという人のはなしをどこかで読みました。PCで作ってプリントアウトしたものは体裁がいいので騙される。手書き原稿用紙にしてみて耐えられるものでなければ考え直す、とのことでした。個人的にはこの感覚、非常によくわかります。でも世の中はじきに、PCあたりまえの世代にとってかわるでしょうから、こんな小さなこだわりの意味はすぐにかき消されてしまうのでしょうが。
いずれにしても、PCであろうとなかろうと、文は人、だと思います(という大雑把な結論^^)。
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そういえば何年か前に、ジョン・アーヴィングは現在三人くらいの女性アシスタントをつかって「チーム」で書いているという記事を目にしました(インタビュー記事だっただろうか)。あくまで著者はアーヴィング、でも書くためのツールとしてアシスタントを使っているという…
ああ、それで!と思い当たるところがありました。『第四の手』あたりから物語の何か、どこかがそれまでと変わったように感じていたので。 これなんか、良い悪い、好き嫌いを超えて、アメリカ人のプロ作家ならではだなぁと妙に感心してしまった次第。
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PS(私信)
Kさん、カルロス・カスタネダのドンファンシリーズは、ジャーニートゥイクストラン、『呪師に成る―イクストランへの旅』にとどめを刺します! 呆然とするような読後感が待っているはず、というか、約三十年前の私は快い呆然自失の感覚に酔いました。
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