世田谷日記 〜 「ハトマメ。」改称☆不定期更新
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場所を替えてでも日記のようなものを続けよう思ったのは、第一に読んだ本の記録だけは残しておきたいと思ったからで、サブタイトルに「〜読んだ本のことなど」としたのもそのため。 購入本についても、買ったそのときに記録しておかないとあとでけっこう不便な思いをしたりするのだ。
それで、今年読んだ本についても、これから3回位に分けてダダーッと書いておこうと思う。まるで夏休みの宿題をまとめてやっつけようとしている子供みたいですが、大丈夫です、大好きな科目なのでいけるでしょう。
今年のお正月は秋田県の新玉川温泉というところでひとりショボンとしていて、そのとき持って行ったのがジッドの「背徳の人」。2011年の読書はこの本からスタートしたのでした。
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「背徳の人」 A・ジッド(ちくま文庫) 何事も真面目が肝心で、背徳にしろ懊悩にしろ大真面目でやらないことには文学にならない。二十一世紀の日本で文学が成立しにくいのは、何でもかんでも個人の自由の名のもとに認められるようになったことと、あんまり悩んで真っ暗になってると「そんなに自分をいじめちゃダメ、もっとポジティヴに」なんて、悩むこと自体を邪魔されちゃったりするからではないだろうか。 それにしてもフランス人の男性同性愛者が背徳やらかす舞台といえば北アフリカなのだなぁ、やはり。バルトもサンローランもみんなそうだったもんねぇ。アンドレ・ジッドが生きていたとして、マツコ・デラックスの所行なんか目の当たりにした日には「あー馬鹿馬鹿しい、やめだやめだ、何もかもぜーんぶ、やーめた!」なんて言うかもしれない。 「若かった日々」 R・ブラウン(新潮文庫) 「人生のちょっとした煩い」 G・ペイリー(文春文庫) 「最後の瞬間のすごく大きな変化」 G・ペイリー(文春文庫) 両方とも米国人女性ではあるのだけれど、続けて読んでいるうちにそれぞれの境界線がやや曖昧になってしまった。そんなことになった理由と思われるのが、二ヶ月くらい前に読んでいたフラナリー・オコナー(米国の女性作家)の短編集。この影響ではないかと。まず最初にフラナリー・オコナーとグレイス・ペイリーの境界線があやしくなってきて、それからそのオコナーの威力がレベッカ・ブラウンとの間にも及び、そうこうしているうちにペイリーとブラウンの間までもがちょっとあやしくなってきてしまったようなのだ。 フラナリー・オコナーという作家は1964年に39歳で亡くなっているのだが、短編集カバー裏の彼女を紹介する文章には「残酷なまでの筆力と冷徹な観察眼」という言葉が書かれている。また「暴力的でグロテスク」だという人もいるようだ。 それで、レベッカ・ブラウンは「筆力と観察眼」、グレイス・ペイリーは「暴力とグロ」がオコナーとの共通点なんだよ、ほとんどのとこ、などと書いてしまうとさすがに乱暴すぎるか。 ところでグレイス・ペイリーの小説の訳者は二冊とも村上春樹なんだけれど、彼曰く「最後の瞬間のものすごく大きな変化」は予想以上に売れたし反響も良かった、小説を読むのが本当に好きな人なら多分この良さを理解してくれるはずだと信じて訳して本当に良かった、と言うのです。 しかしね、正直、グレイス・ペイリーの小説は難解です。背景を理解しようにも日本人には(実感として)とても理解しにくい。原文のぶっ飛んだ独特さも、原文で読めればまだしも、、、しかし仮りに原文で読めたとしてもやはり背景は、、、という大きなジレンマを感じる。 思うに、ペイリーさんってすんごいインテリなんですよ。ゆるぎない思想を持って生きているインテリ。自分の身体をつかい倒して自分の思想を生きるという、そういう新型の(実は正統派の)インテリ。そんな強烈な印象を持ちました。米国人女性作家恐るべし。 「異国の窓から」 宮本輝(文春文庫) 宮本輝さんて私が思っていたような作家さんと違う!一緒に旅することになった若い女性編集者に意地悪ばっかり言ってる。それも関西弁でズケズケいわはんねん、うち、もうガッカリや!と思いながら最初のうち読んでいました。 大人げなく角突き合わす二人がその後どんな旅路をたどったのかは、読んでのお楽しみです。東ヨーロッパ解放前、ドナウ川の源流から河口までの旅を綴った紀行文。小説「ドナウの旅人」はここから生まれたそうです。 「河岸忘日抄」 堀江敏幸(新潮文庫) フランスのどこかの町(どうやらパリではないようです)の河に繋がれた船に住んでいた日々が描かれています。と書くと、まるで作者の堀江さんが主人公みたいですが、フィクションですから一応堀江さんではないはず、でもやっぱり一時期住んでいたことがあるのかなぁ繋留船に、、、というお馴染みの淡々小説世界。こういう一見淡くて静かな生活って、そうとう頑固で自分のやり方を曲げないひとじゃないと出来ないのだということがわかってきた今日この頃。 気がつけば当たり前だけれど、ああ素敵だなーというものが視野一杯にひろがっているときって、なかなか気が付かないものなんです。 「夜想曲集」 カズオ・イシグロ(ハヤカワepi) うーん、うーん。ひとことで言うならば、、、カズオ・イシグロの真骨頂は長編小説なのではないかと。決してこの短編集が悪いと言っている訳ではないのですが(悪い訳がないじゃん)。 なんだか勿体ない気がしてくるのですよね、短編ひとつ読み終えるたびに。次のと続けて長い話にしてくれたら良かったのにーって。つい思ってしまう。 ところで、6月にパリへ行ったとき、帰りの飛行機の中でカズオ・イシグロ原作の映画「わたしを離さないで」を観ました。暗くて暗くてまいったよ。いや悪い映画だったと言っている訳ではないのですが(キャスト素晴らしかったし)。うーん、カズオ・イシグロ好きなんだけど。ゆえに、うーん(悩みは深い)。 「お金をちゃんと考えることから逃げ回っていた僕らへ」 糸井重里/邱永漢(PHP文庫) どうしてこの本買って読んだのでしょうね。一生懸命読んだら、お金持ちになるヒントがどこかに書かれているかもしれないと思ったのでしょうか。 本に書かれていた邱さんの言葉で忘れられないのは「株式上場するほど落ちぶれていない」というもの。つまり出資者集めなくても手持ちで間に合っています、金も出すけど口も出すってのは嫌、自分のしていることについていちいち人に釈明するのが嫌、だそうだ。なるほどなー。あまりの凄さにここのとこだけはよく覚えております。 「終着駅 トルストイ最後の旅」 J・パリーニ(新潮文庫) これは文豪トルストイの最晩年を描きながら、文豪が何故家から離れた田舎の駅で82歳の生涯を終えたのか、その謎に迫るという小説です。 トルストイの妻ソフィアは古今の三悪妻のひとりと呼ばれているらしい。そうなったことの原因のひとつはトルストイが後年(「戦争と平和」を書いた後くらいからだろうか)単なる作家ではなく、ロシアの民衆を導く精神的指導者(ニュアンスとしては教祖様みたいな)になっていたからで、そういうトルストイが一番大切で下世話なことで悩ませてはいけないと表面的には高潔に主張する同志と、そうは言ってもこの人は私の夫でありうちのパパなんです。初期の作品は私が口述筆記を手伝って二人で完成させていたのに…どうしてこんな不自然なことになってしまったの!と嘆く奥さんとの間で、娘や息子までもを巻き込んだ骨肉の争いが延々と続く。こういう小説が面白いかと聞かれれば、面白くないわけがないじゃん、と答えましょう。だって、みなさん自分の欲望全開なんですよ! しかしながら、トルストイに関しては伝記、回想録の類いが非常に多く存在し、要するに関係者の多くが「自分の見解」を残しているわけで、それらをすべて参照して小説にまとめようとすると多すぎる資料が逆に真実を歪めることになってしまう、らしい。大変ですね。なので、著者のジェイ・パリーニは「これはフィクションである」と自らことわりを入れているのだそうです。 悪妻というのは普遍的に小説の素、なのだろうな、きっと。ちなみに古今の三悪妻、あとのお二人はソクラテスの妻クサンチッペとモーツァルトの妻コンスタンツェ、だそうだ。これら三悪妻にしたところで、現代の日本に生きていたら、痛快、正直、見習いたいなんて言われて女性からアイドル視されていたかも。ついてないな彼女たち、生まれた時が悪かったのよ。 「イヴ・サンローランへの手紙」 ピエール・ベルジェ(中央公論新社)
…ここまでで、5月中旬くらいです。(2)に続きます。
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