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はぐれ雲日記 DiaryINDEX|past|will
パソで打つのか。紙なんか。いずれにしろ日記は「読者」を想定しないでしょう。 希望。悲嘆。悦び。などのこころもよう。備忘録。見聞録。生活記録。 そんなものを記録するのにまさか神楽坂相馬屋の原稿用紙に書き付ける人はいまい。 紀貫之の「土佐日記」だって、「読者」が必ずしも想定されていたわけではないでしょう。まあそのときの状況は背景はよくわかりませんが。 後世になってからその「文学性」に気がついた学者たちが、これを勝手に古典「文学」に仕立てあげただけだと思います。ひょっとすると、そんなことは貫之にとつては迷惑千万のことだったかもしれません。あれは彼自身が、土佐から京都へのたびの途中で経験したみずからの体験を綴りながら、それをいくつもの和歌に託した私的日記なのだと考えます。以上は「読者」を前提としない文章は自由ということに関連した補足です。自由とは公権力に縛られないという意味。との知人さんのご指摘は生まれて恥めて奇異たことでありなるほどこれは助かった。と感じたわけです。いつもありがと。 ああ。ここはあてくしの秘密基地ですかんね。いまんとこ。
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