歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2009年06月15日(月) 三沢光晴の死

先日、自室の部屋を整理したのですが、その際、大量に処分したものがありました。それはプロレス関係の雑誌。週刊プロレス、週刊ファイト、週刊ゴング等々。学生時代、毎週のように買っていたプロレス雑誌でした。処分する前、パラパラとこれら雑誌をめくりながらふと学生時代のことを思い出しました。

学生時代、僕はプロレスにのめり込んでいた時期がありました。プロレスにのめり込むといっても自分でプロレスをするわけではありません。そもそも、僕はひ弱で痛い事をすることが嫌いですから。プロレスを見ることに熱中していたのです。僕の学生時代、テレビではプロレス中継がありました。今では信じられませんが、テレビのゴールデンタイムと呼ばれる時間帯にプロレスの試合の生中継があったくらいです。テレビの娯楽の一つとしてプロレスが存在していたのです。当時、プロレスの団体は主に、アントニオ猪木が社長を務めていた新日本プロレスとジャイアント馬場が代表をしていた全日本プロレスがあり、お互いがテレビ中継をしていました。この二つの会社、犬猿の中のようなところがありまして、お互いに交流することはなく、むしろお互いの人気選手を引き抜くようなところがあったぐらいです。お互いが非常に意識をしながら、単独でプロレス興行をしていたのです。
そのような中、新日本プロレスがジュニアヘビー級というジャンルを開拓し、ある人気レスラーを輩出しました。タイガーマスクです。以前から人気のあった漫画の主人公をそのままレスラーにしたてあげたのですが、ヘビー級とは違う身の軽さを利用していろいろな空中技を駆使し、人気を博しました。初代タイガーマスクの誕生です。初代タイガーマスクの正体は佐山サトルというレスラーで、今佐山サトルはプロレスから離れ、総合格闘技の道を歩んでおります。
これを見た、全日本プロレスは初代タイガーマスクが姿を消すやいなやタイガーマスクを登場させました。明らかに新日本プロレスを意識したジャイアント馬場の意向で、全日本プロレスの若手でジュニアヘビー級クラスの選手を二代目タイガーマスクに仕立てたのです。この二代目タイガーマスクが三沢光晴でした。

その後、二代目タイガーマスクとして活躍した三沢光晴はヘビー級に転向する直前にマスクを脱ぎ、本名でプロレス界で活躍することになります。ジャイアント馬場が亡くなってからは、諸事情により全日本プロレスから退団、新団体プロレスリング・ノアを結成、社長として団体を経営しながら選手としてもリングに上がり続けていました。

もともと三沢光晴は非常にタフなレスラーで数十分にわたる試合が連日続いても平然とした態度で試合に活躍していました。相手の技も受けながら、試合を作り、最後は観客を盛り上げ、勝利するという試合パターンは多くのプロレスファンを魅了していました。僕もそんなファンの一人だったのです。
そんな三沢光晴が突然鬼籍に入るとは思いも寄りませんでした。あるタッグマッチの試合中、相手選手から受けたバックドロップが後頭部を直撃。直後意識を失い、帰らぬ人となったのです。
三沢光晴は受身が非常に上手いレスラーでした。それ故、相手の技を受けながらも長時間の試合をこなすことができたのだと思いますが、そんな三沢光晴も47歳を迎えようとしていました。既にプロレスラーとしては体力の頂点は過ぎており、正直言ってタフな長時間にわたるプロレスの試合はしんどい年齢だったはずです。何でも今回の試合でも精彩を欠いていたそうですが、そんな中で相手選手が仕掛けたバックドロップでまともに後頭部がリング上に直撃してしまったようです。これはアクシデントとしかいいようがありません。

アクシデントとしかいいようがありませんが、それにしても早すぎる三沢光晴の死。実際に何度も三沢光晴の試合を見た僕にとっては、何だか青春の一ページが目の前から突然消えたような気がしてなりません。本当にショックです。

今はただただ三沢光晴の冥福を祈るのみです。合掌


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