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2007年01月23日(火) とっさに言い返した言葉に縛られしまう 2

さて、話は最初のブログに戻って...
彼の場合、とっさに言い訳をしてしまう のだそうです。
その言い訳は書いてなかったのですが、例に父親のことが書いてありました。
車を運転中にセンターライン付近を走っているのを見て、右に寄り過ぎていないか?と言ったところ、
「オレは道の真中を走るのが好きなんだ」と答え、実際にセンターラインオーバーの冷や冷やな運転を始めたと。

人に指摘されると、心の動きとしては
「この指摘事実によって自分が馬鹿にされていないか?」
もしくは、「自分が馬鹿にされている」と思う(たいてい被害妄想だったりする)
「このことによって、人になめられてしまわないか?」
「自分に失望するんじゃないか?」
「(相手を目下と思っている為に)お前に言われたくなんかない」

上記の場合は、自分をよく見せようと言い訳をします。
その指摘は無意味であり、いかに自分が正当であるか、上等な人間であるかを証明しないといけないので。

指摘を受けたことに対して、冷静に受け止められる『度量』というものも、成長過程で育ちます。
心の成長と共に。
育った環境は、『言い訳をしなくても良い』環境であるかどうか?

受けた指摘に対して、アッて気が付いて「恥ずかしい」と思った場合、
照れ隠しに馬鹿馬鹿しい言い訳を言うのも『普通』にアリです。
「オレは道の真中を走るのが好きなのだ」
馬鹿馬鹿しくって、笑ってしまう可愛いエピソードです。

teaがよくやる失敗で、洋服を後ろ前に着てしまって、私に「首苦しくなぁい?」って聞かれた時に、
「これが流行りなんだって。これが格好良いんだってば。ワザとこう着てるんじゃん!」って言うのと同じように。
仮にその日一日着続けたとしても、それは『意地』や『照れ』であって、
それ以降毎日後ろ前で服を着続ける訳ではない。

ただし。

『口に出した以上、それを実行しないではいられない』のであれば、それは危険です。
言われた人が忘れているくらいの小さなことでさえ、それをし続けていないと不安であるのであれば。
実行することは、本当の意味で言うところの『自分の意志とは違う行動』であって、
自分が口に出してしまった以上、それを実行することを自分の意志では止められないのであれば、
それは『神経症』という『癖』とは違う問題になってしまいます。

病的であるか ないのか は、素人では判断できないし、
仮に『神経症』であるなら、適切な治療が必要で、
彼の場合はすでに治療は開始されているので、『異常であると思う』のであれば、お医者さんと要相談ってことになるのですが。

さて、人は、家庭が世界の全てとして『日常』の基本を家庭レベルで覚えます。
『普通』かどうかの判断は、家庭ではどうか?で まず判断します。
大人になる過程で、または大人になってからでも、『自分の家の方が異常である』と気が付くまでは。

指摘を受ける状況は、普通ならば注意程度であり、絶えず怒られたり、怒鳴られたり殴られたりしません。
怒鳴り声や暴力が日常である家庭は、明らかに異常であり、その中で育たない限り。

最近、この人は、一体どんな家庭で育ったんだろう?
どんな家庭で、どんな親に育てられたら、こんな大人に育つんだろうか?と不思議に思うことがよくあります。
昨日、徹さんが言葉を説明するのに、『どう言葉を変えても同じこと』だと説明するのに使ったのは、
『頭を叩く』 でした。
ああ、日常的に『頭を叩く』こと、叩かれることが当たり前なのであれば、人の頭を叩くのに罪悪感など持たないし、
反対に愛情表現として、こつく くらいはするわな。
人を叩くことが 暴力であると認識していないのであれば、相手に対して何の気持ちも考えずに叩くわなってね。

徹さんは決して暴力的ではなく、昨日の私のふてぶてしい態度(だって腹が立ったんだもん!!)に対しても怒りもせず、
もて遊ぶように、私の頭から湯気が出るのを たぶん面白おかしく観察していました。
この徹さんでさえ、『頭を叩くこと』を、簡単な例えとして私に話をした。

日常というのは、本当に日常であって、それは空気を吸うように自然に行っていることです。
その日常がすでに おかしかったとしたら?

『何か言われること(指摘)』 イコール 『怒られること』
で、絶えずあるなら、怒られないために 嘘ぐらいつくでしょう。
それ以上怒られない為に、言い訳くらいするでしょう。
それは 子供であれば、当たり前のことであり、その当たり前のことを 『日常』として習慣として育ってしまった。

そして、父親の性格を見ると、言い訳したことに対して
「男が一度口にした以上、言った通りに行動しろ!」くらい言ったでしょう。
そしてそれを強要したでしょう。
それ以上怒られない為に、口からでまかせであっても、言った通りの行動をしなければならなかったでしょう。
絶対君主として鎮座ましましている父親が存在する家の子供なのだから。
そして、それを『普通』として、『日常』として育ち、習慣になってしまったとして、その子供は責められるのでしょうか?
お前は生まれつきの嘘つきだと、言い訳ばかりしていると そう言われて一番傷ついているのは、その子供自身であるでしょうに。


私の日常は、父親によって形成された、
『人の言葉には 必ず裏があり、言っていることと考えていることは違う』ことでした。
普通の大多数の人はそうではないと知ったのは、つい4年前です。
4年前に生まれ変わり、
だから、つまり、私はまだ4歳なのです。
じゅうぶん オバハンな年齢だけれども、やっと人との付き合い方や距離の測り方が判り始めてきました。
まだまだ迷いながら、ぶつかりながら、悩みながらですが ^^;

自分の過去を思い返し、『なぜ』そういう習慣がついてしまったのか?
くだらない言い訳をとっさにしてしまった原因は何か?
言い訳を繕うために、どんどん言い訳や嘘を重ねないといけなくなったのは、いつからなのか?
その根本原因は、一体何か??

そうして、
自分で自分を許すこと。
ああ、今までずいぶん頑張って来たんだ。
自分を守る為に、言いたくない嘘や言いたくない言い訳をしなきゃいけなかったんだって。

言葉に出して言った以上、それを行わなければならなかったのは、なぜ?
それは いつから?
根本原因は、何?

そして、自分で自分を許すこと。
ああ、今までずいぶん頑張って来たんだ。
自分を守る為に、やりたくないことを 頑張ってやってきちゃったんだ。

何が どうして だから、今どうなっているのか?
それに気づくこと。
そしてそれを許すこと。
それも含めて自分であること。
今まで頑張って来た自分を 抱きしめてあげること。
自分の中の孤独な子供を その子供の力を認めてあげて、抱きしめてあげること。

人は 大人になるように育てられる。
私は 今の私になる為に、自分で自分を育てた。

言葉にこだわりを持っていることは悪いことばかりではなく、
「これはくだらない言い訳だ」と頭で判っている脳みそがあるのだから(馬鹿な人は、それすらも気が付かないんだから)、
後は どうしたら良いのか?
その為に 自分は どう行動すれば良いのか?を考えて 壊れていまわない程度に頑張ってみること。
それを『習慣化』してしまうまでは、とっても大変な作業だけれど。

私も 人の言葉の裏を読む癖は 未だに顔を出すけれど、
「いかん!いかん!この人の言葉は、そのまま真っ直ぐで、裏などない」と何度も自分に言い聞かせて毎日を過ごしています。
大丈夫。
もうすでに気が付いているのですから。
これも私だと認め、孤独な子供を抱きしめて誉めてあげること。
始めの一歩は、そこからです。


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