2006年03月23日(木) |
アカイヌクモリ ―――Ⅹ-3―― |
ゴツゴツの地面を踏みつける母親の足音が鳴るごとに、正面に建つ親父の実家が大きくなっていく。遠見の時とこれといって特に変化はないにせよ、この家の中に自分の祖父母がいる、そう思うだけで心臓を鷲掴みにされているようだ。だだっ広い平地にそのまま、ドスッと建てられているこの家に、庭というものは存在しない。いや、玄関を出れば一面庭という言い方もできる。車はなく、古びたオンボロ自転車が二台、無造作に横たわっている。そして、結晶模様のようなガラスでできたスライド式の玄関には、意外なことにインターホンが備えつけられている。周囲の藁の家に似た民家と比べたら、この家は豪邸といってもいいだろう。 「それじゃ……押そうか」 母親が僕の前へ一歩出た。そして、よしっ、と腹を決めるとインターホンに向けて人さし指を立てた。 「ピーンポーン────って言ったら押すんだよ」 〝つまんねえよ、早くしろ〟 「真面目にね、真面目に……」 ────ピーンポーン。 もう後戻りはできない。母親は直立したまま全く動かない。ただ、握りしめた拳だけが微かに震えている。 三十秒以上経っても中から物音ひとつ聞こえてこない。出かけているのか?それとも──。 「ごめんくださーい!」 母親は玄関に鍵がかかっていないことを確認すると、大きな声で呼びかけた。すると、 「はいはい……。何でしょうか?大きな声で」 右手の階段から軋む音と共に掠れ声の女がゆっくりと下りてきた。この老人が親父の母親、つまり僕の婆ちゃんなのだろうか?容姿は初老という感じで、網目の粗いセーターにモンペのような紺のズボン。背は低くて体の均等が悪く、白髪交じりで下顎には大きなほくろがある。探るだけ探って唯一親父に似てるといえば、眼光が強い所だ。あとはひとつもない。ということは僕にも似ていない。 「あの……突然で申しわけないのですが、シノブさんのお母様でしょうか?」 機械オペレーターが喋っているように母親の喋りは不自然にハキハキしていた。 「……えっ?──は、はい。え、な、何なんですか?あの子がどうか──。それより、あ、あなたは一体……?」 不審者を見ているような目から、シノブという名前を聞いて顔色ががらっと変わった。今にも目玉が飛び出てきそうだ。後退るような体勢になった婆ちゃんは、ただ口と目を大きく開けているだけでしばらく止まっていた。 「挨拶が遅くなりすぎたことを心からお詫びしたい限りです。──はじめまして、私はシノブの妻のマユミと申します。そしてこの子は彼との間にできたシドです、十八になります。五年前、ある事件に巻き込まれ、全身麻痺という身体になってしまいました」 母親が一度言葉をきった途端、婆ちゃんは目を泳がせ駆け出すように靴も履かないまま母親を力いっぱい両手で玄関から押し出した。そして、怒鳴るように言った。 「帰っとくれ──!あの子は……シノブはもう私の中にはいないんだから──!」 親父は死んだものとされていた。考えれば考えるほど悲しい。けど、母親はそんな感情に浸ろうとするどころか、婆ちゃんに負けじと玄関が閉まらぬよう片足を伸ばして言った。 「ものすごい時間をかけて来たんです!勝手かもしれませんがこのままじゃ帰れません!私のことはどうでもいいんです。ただこの子を──あなたの孫になるこの子のことをもっと見てあげてください!この子には──シドには時間がないんです!」 〝シドには時間がないんだ!〟。一昨日の晩の親父のように母親の言葉には力が入っていた。 ふと、婆ちゃんの玄関を閉めようとする手が止まり、ゆっくりと僕の顔に視線を当ててきた。そして──、 「あなたシノブの妻だって、本当なのかい……?。頭の中がゴチャゴチャでわけがわからないよ。年寄りにわかるようにちゃんと説明しておくれ。それと、足を外しぃ。もう閉めたりしないよ」 「あ、はい。ありとうございます。──それじゃあ、話します」
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