K馬日記
サリュウラヴケーマ号とバリトンサックスの『ウエエ、ウエエ』なわだち
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2009年12月08日(火) 翻訳論

最近翻訳って不思議だなあ、と思う。
翻訳者の違いによって、その作品に差が出てくるというのがとても不思議でならない。
洋書の日本語訳にしても。
古典の現代語訳にしても。
やっぱり、その翻訳者の癖っていうのが出ちゃうんだろうね・・・。
「コンテンツ」をそのままに、「スタイル」だけを変えただけなのに・・・。
面白味に大きな差が生じるというのは・・・。
なんとも不思議ではないか!
そういう風に考えると。。
どんな本の翻訳をしても必ず面白くなる翻訳者とか。
誰が訳しても面白い本っていうのは存在する気がするなあ。。

どんな本の翻訳をしても必ず面白くなる作家っていうのは。
要するに「スタイル」っていうものをマスターしている作家さんであって。
誰が訳しても面白い本っていうのは。
要するに「コンテンツ」が至上の高さまで到達した本であるわけさ。
もしその2つが合わさったらどうなるんだろうとか考えてしまうけど。
そんな例はぼくは知らないので言及しません。

そんなことを芥川訳のアナト−ルドフランスの「バルタザアル」を読んで感じた次第で。
芥川の文体(ていうか近代小説の典型的なナラティブ)は好きなのに。
やはりコンテンツが好みでないとあまり読んでて好きにはなれませんね。
だから「地獄変」とか「藪の中」とか「鼻」とかすっごい好きになれるんだろうか?
ってことは・・・実はぼく古典のコンテンツが好きなんじゃね?
文体は好きじゃないけど(笑)
今「あさきゆめみし」で源氏物語を読んでるけど。
内容はすごく面白いと思う。
ただ表現スタイルが・・・。
まあそもそもコミックっていう異なる媒体なんだけどさ。。
たとえば夏目漱石訳の「源氏物語」があったとしたら。
多分それはすごく好きになれると思うし。
まあ漫画もいいけどね。
やっぱり絵があるっていうのは受容するものが多い分内容に面白さが増す気はするね。
まあでも、絵があるっていうことは要するに視覚を制限することだから。
読者にリミッターを与えているに過ぎないんだけど。。
映画だったらこの視覚に加え、聴覚も代行するわけだから。
やはりどんどん受容者は受け身になっていくよね。
なんてことを映画論のレポートで書いたなあ(笑)
文学と映画はいかにして区別されるか!
って感じのやつ。
やっぱり芸術ってのは純粋化が進むわけだから。
いったんは離れようとするんだよね、相互に。
でも映画なんてのは、文学・演劇・音楽・美術・・・いろんな要素に絡んでるから。
純化しようとすると、どうしても「映像」「イメージ」とかになっちゃう。
ただ、映像とかイメージとかだけで作品を作るのは難しいから。
どうしてもモンタージュを多用せざるをえない。
その「素材としての映像を再構成する能力」っていうのが映画監督の腕によって異なる。
そういう意味で小津安二郎は評価されているのかもね。。
再構成するにしたって「晩春」での壺のシーンは、再構成としてはどうなの?っていう感じではあるけど。
確かに絶妙なタイミングと間があるね。
複合的な芸術としての映画っていうのは、実は学問としてはすごく深いものがあるんですね。
そういえば、現代になるとそれぞれの芸術は歩み寄りもするんだけど。
たとえば絵画と文字が融合したりとか。
まあ、でも長くなるとあれなので今日はこの辺で。

あれ・・・最初翻訳の話だったよね?(笑)

hona-☆


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