先日、国立劇場で行われた「文楽素浄瑠璃の会」を聴きに行ってきました。 素浄瑠璃というのは人形のない、浄瑠璃のみの舞台です。 一中節や常磐津、清元などでも踊りのない演奏だけの形式の舞台を素浄瑠璃といいます。 「素で語る」ともいいますね。
二番目の演目「仮名手本忠臣蔵 早野勘平腹切の段」を語られたのが七世竹本住大夫さん。 三味線は野澤錦糸さん。
幕が上がった瞬間から、なにか不思議な引き締まった”気”みたいな空気を感じました。 知らず知らすのうちに住大夫さんの浄瑠璃に引き込まれていきました。 一字一句聴き逃すことがおのずとできないような浄瑠璃でした。 おれなんかがいうのはとても恐れ多いのだけど、繊細なところ細部にわたるまで妥協のない、基本に忠実な、正統派のような浄瑠璃だと感じました。 なにかてらうような箇所がひとつもなくて。。。 息の吸い方や、間の取り方には特に感動しましたね。
演奏のあと「義太夫を語る・弾く・聴く」と題して文楽研究家の高木浩志さんの司会で住大夫さんと錦糸さんのお話がありました。
住大夫さんは先日、文化功労者に認定されました。 司会の高木さんが「これで(人間国宝、文化功労者であった)師匠(故豊竹山城小掾)に並ばれましたね」と言うと。。 住大夫さんは「いえいえ、まだまだ芸の幅はこんなありますわ」と両手を大きく広げておっしゃっていました。
「言葉の語れん大夫になったらあかん」
「大夫が三味線にあわそうとするのも、三味線が大夫にあわそうとするのもあかん。最近の若い大夫は三味線を待とうとするから言葉が死ぬ」
「音の高さで役を変えるんではない。息で変えるんです」
「いかなるときも腹と腰には力です」
「死にそうな役をやるときは息を吐きながら語るんです」
「息は意識して吸うのではなくおのずと吸えるように語る」
「浄瑠璃をここまでにしてくれた先輩、先人たちに感謝せなあかん。 長い時間をかけて代々の先輩方が研究して、洗練され、浄瑠璃がすばらしいものになった。 ほんとうにいいものをつくりあげてくださった。 われわれはおかげでつくりあげてくださったものを再現するだけでいい。 それでよくなかったら大夫が余程悪い。」
ひとつひとつの住大夫さんの言葉には重みがありました。 胸に響きました。 ときおりユーモアを交え話をする気さくな方でした。 本当に浄瑠璃を愛しているご様子が伝わってきました。 ほんと、おれにとってたくさんの宝物を得ることのできた日でした。 ありがとうございます。住大夫さん!! すばらしい浄瑠璃をこれからも語り続けてください!!
最後におれの好きな言葉で今日の日記を終わらせていただきます。。
「芸というのは上手とか下手とか少々声がよいとか、そんなものはごくごく軽いです。 究極は人間性です。 下手に語っていいんです。 無になってやる。 無の心でやる。 ところが私なぞは上手そうに語ってても本当は下手なんです。 自分をさらけ出してないんですね。 語る人間の人間性となると正味その者の生き方ですから、いよいよ限りなき精進が必要です。」
七世竹本住大夫
参考文献:芸能名言辞典(東京書籍)
|