37.2℃の微熱
北端あおい



 『深層生活』

デシデーリア 何も起こらないわよ、もう何も起こらないの。

私 何も?

デシデーリア 何もね、わたしの話はおしまい、お別れするときが来たわ。

私 君の話は終わっていないよ。

デシデーリア なぜなの、ほかに何が知りたいの?

私 君はクイントからピストルを盗んだろ、お告げが教えてくれたところでは
君の問題の解決はこのピストルにあるんだな。
つまり君の養母と愛人を殺さなければいけないんじゃないかな、ティベリとクイントを殺したようにな。こうしてこそ、君の物語に決着がつくと思えるんだけれど。

デシデーリア でも、それは本当じゃないわ。生命には結末はないし、あり得ないでしょ、私はあなたやお告げの問題が終わったあとでも生き続けるだろうし、そうなれば、私の物語はもう終わるわけがないのね。でも、物語がどれだけ重要だというの。重要なのはなにかといえばこの私、そしていまやあなたはこの私のことを充分に知っているわけ、私が何ものかということを理解するためにも、人に理解してもらうためにもね。

私 本当だな、ぼくは君が誰なのか知っているし、最初から知っていた。でも、やっぱり、これから君がすることを知りたいもんだな、君がサン・ジョヴァンニに向かって歩き始めたときからあとのことをね。君がこれからすることを見れば、君について抱いている考えを変えるかもしれないし、君の人柄の新しい面が明らかになるかもしれない。

デシデーリア そんなことないわ、私はいまのままの自分であるほかないのよ、きのうはきょうと同じ、そしてあしたと同じなの。そういうことだから、さよならね。

私 待ってくれ、そういうふうに行ってしまうわけにはいかないよ。君自身、まだ終わっていないと認めたじゃないか。

デシデーリア 広島では原爆が爆発したあと、人体の痕が壁に残ったの、砂に足跡が残るみたいにね、つまりしっくいより少し暗い影で、頭と胸と足がついてるのね。この痕を残した肉体は強い炎にほろぼされ、無にされたの。私がそうなのよ。あなたの想像力が私を消し去ったの。結局、私はもうあなたの文章の中で痕跡として、登場人物としてしか存在しないのでしょうね。
(A.モラヴィア『深層生活』早川書房、1983)

※読みやすくするため、引用部分の台詞ごとに一行空きにしました。本文は空きなし。

2006年01月31日(火)
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