月に舞う桜
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2020年07月15日(水) |
【本】内田樹『レヴィナスと愛の現象学』 |
内田樹『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)読了。
大学生のとき、思想家エマニュエル・レヴィナスに出会い、入門書や著作を読んで感銘を受け、卒論でもレヴィナスを取り上げた。 大学卒業後はすっかりレヴィナスから離れてしまったけれど、約20年ぶりに、その思想に再び触れてみた。
これはレヴィナスの思想を読み解いて解説している本で、最初のほうは難しいというか、私の興味から外れていたけど、80ページあたりから面白くなった。 レヴィナスの思想について忘れていたこと、あやふやになっていたことを学び直すことができて良かった。また、大学時代にはきちんと読み込めていなかった(理解できていなかった)論についても、あの頃より少しは理解が進んだだろうか。
でも、全体的に私にはちょっと合わない本だったかもしれない。 著者が冒頭で断っているように、これは中立的な立場の研究者によるレヴィナス入門書ではなく、自称弟子による、批判精神のない読み解き書だ。だから、レヴィナス贔屓が過ぎる。 再度レヴィナスを一から学ぶなら、私には合田正人さんの『レヴィナスを読む』か熊野純彦さんの『レヴィナス入門』のほうが良いのかも。
内田先生のこの本でレヴィナス思想の理解が少し進んだことで、よりレヴィナスが好きになるというよりは、むしろ逆の作用が働いてしまった。 (相変わらず、感銘を受ける点も多いが)
父権主義的で男尊女卑的だと捉えられて批判された論について、この本では批判に対する批判と、内田流の読み解き方によるレヴィナス擁護を試みている。 でも、私が学生時代に『全体性と無限』を読んで感じた疑問(「疑問」と言うより、俗っぽく言えば「嫌な感じ」)は解けず、批判者たちの批判のすべてが的を射ているわけではないにしても、やはり彼らが批判した論は批判されるべきものであるように思った。
たしかに、レヴィナスは「女性とは、柔和で、慎み深く場所を空け、男性を歓待するものだ」というような言い方はしない。 レヴィナスが言う「女性/女性的なもの」「男性/男性的なもの」は、実社会におけるセックスやジェンダー的な意味での女性・男性という属性のことではないから。 けれど、セックスやジェンダー的な意味での女性・男性について語っているのではないにしても、なぜ、主体を「男性的なもの」と名付け、「私」を歓待する他者を「女性/女性的なもの」と名付けてしまったのか。 まだジェンダーの問題が社会で問題として扱われていない時代ならまだしも、フェミニズムが巻き起こっている時代において、なぜ。 なぜ、「私」と「他者」の関係を巡る論において、「女性的なもの」「男性的なもの」という言葉に、あえてわざわざ言い換えなければならないんだろう。 「女性的なもの」「男性的なもの」と言わなくたって、レヴィナスがそれ以前に既に用いている言葉でもって、論の組み立てはできるように思うのだけど。
根本には聖書の解釈があるようなのだけど、つまりは、やはり聖書自体が父権主義的で男尊女卑的であるということに尽きるのだろうか。
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