月に舞う桜

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2019年05月30日(木) 言葉は、死者ではなく生きている人に受け取らせてしまうから

自分の経験を絡めて書きました。ちょっと長くなりましたが、読んでいただければ嬉しいです。

川崎で起きた殺傷事件を受けて、「死にたいなら一人で死ね」という言葉がネット上で飛び交っている。
それに対し、藤田孝典さんが「これらの言説をネット上で流布しないでいただきたい」との記事を書いている。

◆川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい(2019.5.28 Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/

ただその場所にいただけで巻き込まれ、命を奪われたり傷つけられたりした被害者や、被害者の近しい人たちが「死にたいなら一人で死ね」と思うのは当然だし、彼らが犯人に対してそういった言葉で怒りを表明することは、咎められるべきではないと思う。
けれど、私を含め、被害者でも被害者の近親者でもない人々が、感情に任せてそのような言葉を発信してもよいのかどうかは、また別の話だ。

「死にたいなら一人で死ぬべき」と公に発信している人は、おそらく犯人に対して言っているのだろう。
でも、死んでしまった人にはどんな言葉も届かない。
言葉を受け取るのは、生きている人間だけだ。
突き放し、社会から排除しようとする言葉は、死んだ犯人にではなく、発信者が想定していない誰かに届いてしまう。
今まさに死にたいほど追いつめられ、尚且つ社会に対して憎悪を募らせているかもしれない誰かに、「死にたいなら一人で死ぬべき」との言葉を受け取らせてはならない。

記事をしっかり読めば、藤田さんの注意喚起が犯人擁護でないことは明白だし、「次の凶行を生まないため」とも書かれている。
繰り返すけれど、今まさに社会に対し憎悪を募らせている人に「死にたいなら一人で死ぬべき」が届いてはならないから、藤田さんは、もう少しあとではなく、”今” 書いたのだと思う。
被害者を悼み、寄り添い、ケアすることと、同じような事件が起きないよう(同じような加害者と被害者を生まないよう)発信に注意深くあることは矛盾しない。と言うかむしろ、それらは地続きだと思う。
いま生きていて、憎悪や殺意を抱いているかもしれない誰かを、追い詰めてはならない。

追い詰められ、一度は殺意を抱いた人が、カウンセラーの言葉によって救われ、殺意が散った体験談がまとめられている。
そのときの心情がリアルに書かれているので、みなさん読んでほしい。

◆この視点は知っておくべき「マジで通り魔やるか」と決意しかけてやめた話(togetter)
https://togetter.com/li/1360563

こういうことは、たぶん誰にでも起こり得ることだ。

ヤフー記事で藤田さんが書いている
「社会はあなたを大事にしているし、何かができるかもしれない。社会はあなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない」
という言葉は、私だって、精神状態がちょっと違ったらバカな理想論に思えて一蹴していたかもしれない。
でも、たとえ今の社会が「あなたの命を軽視していないし、死んでほしいと思っている人間など1人もいない」という状態でないとしても、「社会はそんなじゃないだろ」と言ったって意味がない。
理想の状態でないからこそ、理想論を語って、理想に向けて動く意思を表明すべきときがあると思う。

死にたいと思うことと実際に命を絶つこと、誰かを殺したいと思うことと実際に殺してしまうことの間には、本当はとても高い壁があるはずだ。でも、人は苦しみの蓄積の果てに、何かの拍子、ちょっとしたきっかけで、その高い壁を乗り越えてしまうことがある。
本来は高いはずの壁を乗り越えさせてしまうような要因(言葉、眼差しetc.)を、私たちは作り出してはならないし、きっかけを与えてはならない。


私の話。
殺意まではいかないけれど、中学生のとき、無性に誰かを傷つけたくなったことがある。
小さな要因はいくつか思い当たるものの、なぜそこまで荒んでいたのかはっきりとは分からない。
幸運にも、私は高い壁を乗り越えなかった。少なくとも、誰かを故意には傷つけなかった。
それは、私を救ってくれる音楽があったのと、生涯の親友と思える友達がいたことが大きかったと思う。決して、私個人の資質だけで踏みとどまったわけじゃない。
広い意味での“支援”があったから、踏みとどまれた。
あのときの「誰かを傷つけたい」という気持ちは、負のエネルギーに自分が押し潰されそうなほど辛いものだった。

もう一つ。
昔は、人身事故で電車が止まるたび、他人を巻き込まない方法で死ねばいいのにと思っていた。
でも、15年前、人身事故で通勤電車が止まったとき、もしかするとその人は最後に社会に対してささやかな報復をしたかったのかもしれない、それなら仕方ないな、と考えた。
それは電車に飛び込んだ人への同情や想像力というより、勝手に共鳴してしまう感覚だった。
その頃の私は、精神的に追い詰められていた。
自分が精神的に追い詰められているからこそ、社会に報復するために電車に飛び込んだのではという考えが浮かんだ気がしたし、そうしたい気持ちが自分の中にも潜在的にあるんじゃないかと思って、怖くなった。

生きていれば、そういうことが、ある。

私も含め、いま生きている人は、みんな凄いんです。
どんな状態にあったって、自分には生きる価値がないんじゃないかと感じてたって、生きている人はみんな凄い。
自ら命を絶ってしまった人も、最後の最後まで生きたんだから、凄いんです。
そして、私も含め、誰も殺さずにいる人も、凄いんです。

なお、江川紹子さんが、この件に関する何人かの見解を紹介しながら、論考を書かれています。こちらもおすすめです。

◆「1人で死ね」ではなく〜川崎19人殺傷事件で当事者でない1人として言えることできること(2019.5.29 Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190529-00127888/


桜井弓月 |HomeMail


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