月に舞う桜

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2018年07月08日(日) 嫌なのは、苦しみながら生きること

重い病を患って闘病している人の日常を追うようなテレビ番組、同じように闘病している人やいろいろな苦境に立たされている人たちがああいった番組を観て、励まされたりエネルギーを得たりするのは分かる。
だから、番組そのものにどうこう言いたいわけじゃない。
ただ、私は、そういった番組を観ると暗澹たる気持ちになって、この先の自分の人生が恐ろしくなる。

ああ、この病気になると、こういう症状が出るのか。
こういうふうに日々苦しまなければならないのか。
治るとも治らないとも、いつ終わるとも分からない日々を、生き続けなければならないのか。

どんな状況でも、どんな病でも、希望や輝きを持って生き続けることができる人はいる。
でも、私にはたぶんその強さや力は、ない。
自分にそういう類の強さや力があると見通すことができない。

嫌なのは、死ぬことじゃない。
嫌なのは、苦しみながら生きること。
苦しみながら生きたくない。本当に嫌だ。

もし私が重い病を患ったら(どの程度の重い病か分からないが)、おそらく、日々を終わらせたいと思うだろう。
でも、病に苦しむようになったら、自力で生の外へ出ていくことは今よりもっと難しくなる。

「安楽死を法制化してくれないだろうか」

結局、私が最終的に思うのは、いつもそれだ。

病と闘いたい人、最期まできちんと生きたい人、希望を持って、あるいはこれから希望を見出して生き続けたい人は、そうする権利がある。納得のいく医療と支援を受け、病を抱えながらできるだけQOLを維持して生きる権利がある。

でも、苦しみたくない人、闘いたくない人の権利もあったっていいんじゃないか。

生きることは、権利だ。義務になってはいけない。

そんなことを考えて、でもこの社会では生きることって権利というより義務なんだよな、と思って、年老いた将来の自分を思い描いたら嫌な気分になる。

重ねて言うが、闘病中の人を追ったテレビ番組の問題ではない。ましてや、そこに出ている人の問題でもない。
私の性分の問題だ。
そういう番組なのだと最初から知っていれば観ないのだけど、軽めの番組の中で思いがけずそういうタッチになってしまうと、どうすればよいやら。

苦しみながら、生きたくはない。


桜井弓月 |TwitterFacebook


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