月に舞う桜

前日目次翌日


2017年03月03日(金) 映画『We are X』

今日が封切りの映画『We are X』を朝一で観に行った。「観たい」と言うよりは、「ファンとして、観なければならない」という義務感のほうが大きかった。
事前に公開されていた映像や、YOSHIKIをはじめとするX JAPANのメンバーの感想から、内容がかなり重くてメンタルがやられると想像していた。去年12月のYOSHIKIクラシックコンサートで、映像のほんの一部を見せられただけで号泣してしまったのだ。だから相当の覚悟が必要だろうと思ったし、実際、YOSHIKIも「覚悟して」と言っていた。
私は、映画のあまりの重さに自分の頭がおかしくなるんじゃないかと心配になり、映画のあとX JAPANファンではない友達と合流して遊んでもらうことにした。まともな精神状態を取り戻すには、X JAPANと関係のない人と楽しく過ごすのが一番だから。
楽しみな気持ちと、観るのが怖くて気が重いという本音が半々の中、バッグに大量のポケットティッシュを入れて行ってきた。
で、結論から言うと、私にとっては想像していたほどの衝撃はなく、むせび泣いたりもしなかった。ところどころ、静かに涙を流した程度。

以下、ネタバレです。


●事前に映像を見せすぎ
まず、映画そのものの感想ではないんだけど、見終わって一番に思ったこと。プロモーションで映像を見せすぎ。
想像していたほどの衝撃がなかったのは、事前のプロモーションで多くの場面を観てしまって耐性ができていたからだと思う。あとは、メンバーが「衝撃的すぎて立ち上がれなかった」などと煽るので、こちらが必要以上に身構えて観たからか。
YOSHIKIのニコ生や映画公開一週間前のMステ、それから公開前日に放送された「SONGS」などで、映画のとても重要なシーンがこれでもかと言うくらい公開されていた。事前に公開された場面の一つ一つは、映画を観ても「それ以上先」がないことが多いので残念だった。
例えば、Toshlが「自分としてはカットしてほしい場面、発言があって、監督にお願いしたけど、監督から長い手紙をもらって『あの場面は映画に必要』と説得された」と話していた件。たぶん洗脳時代の映像が出てるんだろうなあと思ったら、案の定、すっぴんでラフな服装のTOSHIがどこかの施設かミニコンサートで、ギター片手に「有名になってもちっとも幸せになれなかった」と語っていた。で、この場面がSONGSでそのまま流れて、映画を観る前に「あ、Toshlが言ってたのはこれかあ」と。その場面に関して、映画でそれ以上のものはなく。
それから、幼いYOSHIKIと父親が一緒に写っている写真が出て、「父親が自殺したあと、母親が父親の写真などを全部捨ててしまって、父親と一緒に写っている写真はこれ一枚しかない」とYOSHIKIが語る場面も、確かどこかで事前に公開されていた。遺品を捨てずにはいられなかったお母様の心情、父親との思い出の品が写真一枚しかないYOSHIKIの心情、そういったものに思いを馳せられる、とても重要なエピソードだと思うんだけど、そんな大事な場面は映画を観て初めて知れるようにしたほうが良かったんじゃなかろうか。
あとは、YOSHIKIのお母様が声で出演しているところ。「めざましテレビ」だったかなあ、公開前に流れてたんだよね。「あの子(YOSHIKI)は体が弱くて、大きくなるまで生きられないのではないかと思っていた」というような語りが入っているのだけど、その内容より、お母さんの肉声が出てるよ! という衝撃が大きくて、それもやっぱり映画を観て初めて知りたかったなあ。
そんな感じで、衝撃的な場面の全貌がかなりプロモーションの段階で出ていたんだけど、大事な場面はチラ見せ程度にしておいて、映画で全貌を明らかにしてほしかったなあというのが正直な気持ち。

●編集力
とは言え、映画そのものが面白くなかったわけではない。
映画制作にあたり、YOSHIKIが「監督はX JAPANのことを知らない人にしてほしい」という条件を出し、白羽の矢が立ったのがドキュメンタリー映画の名手と言われるスティーブン・キジャック監督だった。
この映画を撮る前はX JAPANをまったく知らなかったのに、さすがに編集がうまい。映像のたたみかけ方やBGMの選曲に、X JAPANをとてもよく理解しているなあと思う。破壊的なエネルギーや疾走感や不安定さや壮大な美しさ……X JAPANが持ついろいろな面を、適切な場面で適切に表現した編集だと思う。
描き方が時系列ではなく、過去と現在を行きつ戻りつしながら螺旋階段のように進んでいくところも、X JAPANの一筋縄ではいかない(むしろ大変なことばっかり!)歩みを象徴しているように思えた。

●第三者のインタビュー
メンバーへのインタビューと同等に、あるいは、それ以上に重要な価値があると思ったのは、第三者の言葉だ。X JAPANの知識がなく、まっさらな状態から始めた監督だからこそ、「X JAPANを外側から、客観的に見る」ということの効果をここまで出せたのかも知れない。
私は長いことファンをやってきて、どっぷり浸かっているので、世の中でX JAPANがどんな存在であるかを、実はあまりよく分かっていなかったりもする。もっと言うと、私にとって彼らの存在は揺るがないので、音楽業界での彼らの立ち位置には、それほど興味がない。日本を代表するバンドだとか偉大だとか、あんまり言われると「へー、X JAPANって、そんなにすごいのかあ」とびっくりしちゃうぐらい。そりゃあ、彼らが誤解されたり中傷されたりしたら嫌だけど、それはまた別の話だ。
ただ、ふと立ち止まって考えたときに「X JAPANって、いったい何なんだろう?」と思うことはあって、この映画でメンバー以外のいろいろな人がいろいろなことを言っているのは興味深かった。

私が特に印象的だったのは三人いて、一人目は、ソニー時代のプロデューサーだった津田直士氏だ。彼は、「Xが出てくる前とあとでは、明らかに音楽業界が変わった。紀元前、紀元後みたいに、X前とX以降は違う」と言った。Xの音楽性やルックスや姿勢は、それぐらい当時の音楽業界に影響を与えたのだ、と。私はデビュー当時のことをリアルタイムではまったく知らないけれど、こうして「紀元前、紀元後」なんて言葉で改めて聞くと、「Xとは何か、何だったのか」が客観的に垣間見ることができて面白い。

二人目は、KISSのジーン・シモンズ。
彼はX JAPANについて「もし彼らがイギリスかアメリカの出身だったら、間違いなく世界一のロックバンドになっていただろう」と語っているけれど、私がそれ以上に興味をそそられたのは、「人種差別になるから誰もはっきりとは言わないけど、音楽業界には暗黙の了解があるからね」という言葉。これは非常に重くてインパクトのある言葉だ。ロック界で確かな地位を築いたジーン・シモンズだからこそ、そして、イスラエルからの移民である彼だからこそ、重みを持って言える言葉だと思う。
X JAPANが英米出身者であれば世界で大成功していたかどうか、私には分からない。そもそも、ジーンの褒め言葉はお世辞半分だろうとも思うし。けれど、X JAPANがどうということではなく、既成概念を破壊する(と多くの人が幻想を抱いている)ロック界の「暗黙の了解」とやらに深い闇を感じて、やっぱりなあと思うと同時に、皮肉を感じたのだった。
で、X JAPANが目指している「世界」というのは、本当に世界なのか? 憧れるあまり、そこがとても広いところのように思えるけど、本当はとてつもなく(もしかして日本より?)狭い場所なんじゃないか? そんなことも考えさせられた、ジーンの言葉だった。

そして、マリリン・マンソン。
彼の言葉は正確には覚えていないんだけれど、「音楽というのは、自己の内側の痛みを表現して、自分を納得させるためのものだ」というようなことを言っていた。「音楽」のところは、もしかしたら「芸術」とか「創作」とか、そういう言葉だったかもしれない。これは、YOSHIKIの音楽性や創作への姿勢を見ていると本当に納得できるし、「YOSHIKIにとって音楽とは何か」を端的に言い表しているんじゃないかと思う。こういうことを深いところで分かり合える人がいるのは、YOSHIKIにとって心強いことだろうな。

●お宝映像
映画には、お宝映像もたくさんあった。
例えば、デビュー前、歌詞のついていないBLUE BLOODを金髪ロン毛ですっぴんのToshlが歌っている姿とか。例えば、まだメイク前でサングラスもかけていないHIDEが色紙にサインしているところとか(私はHIDEのすっぴんを初めて見た!)。例えば、こちらもすっぴんで、ジャージ履いて髪を無造作にゴムで結わいたYOSHIKIが、リハでドラムを叩いている姿とか。例えば、メイクさんに下瞼にアイラインを引いてもらっている最中で、メイク中特有の変な顔で映っているPATAとか。
そういう、飾り気のない彼らの姿はとても貴重だし、感慨深い。すっぴんの彼らはカリスマでも大スターでもなく、どこにでもいる青年であり、中年のおじさんである。それが、たまらなく愛おしい。

映画の中で、一箇所だけ手放しで笑った場面がある。映画は2014年10月のマディソン・スクエア・ガーデン公演を軸に構成されていて、その楽屋にToshlが入るとき、映画の密着カメラがついて行く。で、Toshlが「どうぞ」と言いながらドアを開けようとするのだけど、なぜかドアがうまく開かないんである。「あれ? あれ?」と慌てるToshlがかわいくて、思わず声を出して笑ってしまった。あの場面をカットしなかった監督に感謝したい。しかも、無事にドアが開いたら、昔の金髪ロン毛だった頃のToshlが出迎えてくれるという編集の妙。

●いま、生きていること
上でも言及したToshlの洗脳時代の映像は、確かに本人にとっては振り返りたくないもので、「カットしてほしかった」というのは偽らざる本音だろう。Toshlは当事者だから、振り返りたくないことは振り返らなくていいし、思い出さなくてもいい。でも、私は、あの映像をいま改めて見せてもらえて良かったと思っている。あれは、Toshlがどんな状況でも必死に生きてきた証だ。「あのときがあったから、いまがある」なんてことを言うつもりはない。あの12年間は、ない方がよかったし、しなくていい経験だ。けれど、なかったことにはできない。なかったことにするべきじゃない。苦しみのさなかでも、誰かに取り込まれても、心が悲鳴を上げても、そのときそのときでToshlは一生懸命生きてきた。それを私は忘れたくない。あの、ギター片手にどこか危うげな目つきをしたTOSHIも含めて、彼の人生のすべてを大切にしたいと思う。
それに、いくら洗脳の影響を受けた言動であるとは言え、「有名になっても幸せじゃなかった」というのは、当時の彼の本心だったのではないかという気がしている。幸せじゃない原因についてはねじ曲げられてたかもしれないけれど、そもそも、幸せじゃないことがカルトに取り込まれる始まりだったわけで。
私は、あの映像の中のTOSHIを抱きしめて言ってあげたかった。大丈夫、何年か後の貴方は、ちゃんと幸せになっているよ。

過去があって、そして、どんな過去にも関わらず、いま彼らも私たちも生きている。
ToshlとYOSHIKIがTAIJIのお墓参りにいく場面がある。二人で墓標に向かって手を合わせたあと、YOSHIKIが「僕たちの物語がまさかこんなふうになるとは、あの頃は思いもしなかったよね」と言う。それに対して、Toshlが静かに返す。

「でも、生きてるからね」

実は、去年12月のYOSHIKIのコンサートで私が号泣したのは、この場面が流れたからだった。
でも、生きてるからね。
なんて重くて深くて、すべてが凝縮された言葉なんだろう。Toshlが言うからこその、重み。
Toshlは、YOSHIKIの言葉を「こんなに壮絶なことばかり起きるとは思わなかった」という意味に取ったのだろうと思う。
でも、それでも、自分たちは生きている。
私は、一歩間違えればToshlは本当に殺されていたかもしれないと思っている。それは、文字通りの意味でもあるし、精神的に、という意味でも。けれど、彼は生き抜いた。生きて、戻ってきた。
いま、生きている。それがすべて。
生きているということは、輝かしいだけじゃない。切り離せない過去があり、死者と隔てられているということ。そういうかなしみを引き受けて、それでも生きている。

この映画の中で、YOSHIKIはお墓参りに3回行っている。hide、TAIJI、そして自身の父親の。父親の墓前で手を合わせているとき、そのYOSHIKIの手がいつもより老けて見えた。それが、とても印象に残っている。そう見えるようにわざと撮ったのかと勘ぐりたくなるぐらいに。
手には、その人が生きてきた年月が色濃く刻まれる。YOSHIKIの手に表れた老いは、彼が父親の死後もここまできちんと生きてきた証だ。

この映画でYOSHIKIの生い立ちや内面の次にスポットが当たっているのは、ToshlとYOSHIKIの関係性だと思う。もはや、友情という一言で片づけていいのか躊躇われるくらい、強固な二人の絆。
スタジオで、二人が語っている場面。まだX JAPANが再結成する前、洗脳下にあるToshlがロスのYOSHIKIを訪ねたときのことを話題にしている。あのとき、久しぶりに二人で食事に出かけ、再結成の話はせずに小学校の思い出話などに花を咲かせたそうだ。Toshlはカルトから「再結成の話を進めろ」と指示を受けて渡米したわけだけど、YOSHIKIと他愛もない話をしたら昔を思い出して、久しぶりに素の自分に戻って解放された気持ちになった……と回想していた。
友達って、なんて大切で、なんてありがたいんだろう。単純だけど、本当にそう思う。
また別の場面、ロンドンかロスか分からなかったけれど、どこか海外の町なかで、ToshlとYOSHIKIが別れの挨拶をする。じゃあ、と軽く手を振って、YOSHIKIは路肩に停めた車に乗り込み、Toshlはそのまま歩いていく。その二人の様子が何とも自然体で、微笑ましい。二人とも、類稀なるアーティストの一面は影を潜めて、ただ「共に育って共に歩んで、そして共におじさんになりました」という感じ。あるいは、一日の遊びを終えた二人の少年が、無邪気に明日を信じて「じゃあな!」と手を振っているような。
この二人の絆、関係性って、何なんだろうな。すごいなあ。

●物足りなさ
映画を観る前、「『We are X』といいながら、実は『I am YOSHIKI』なのでは?」と思っていた。結果、想像していたほどではなかったけれど、それでもやはり『I am YOSHIKI』寄りな面は否めず。X JAPANの方向性を決めているのも楽曲のほとんどを制作しているのもYOSHIKIだし、X JAPANというバンドはYOSHIKIの精神性を色濃く表しているから、彼の生い立ちや内面に迫るのは自然なことと思う。ただ、ソロアーティストではなく、もしくはToshlとYOSHIKIのユニットでもなく、あくまでバンドのドキュメンタリー映画なのだから、もう少しほかのメンバーにも比重を当ててほしかったし、内面に迫ってほしかった。
例えば、あのきな臭い再結成劇を、PATAとHEATHはどう見ていたのか。かつてTOSHIが脱退を申し入れたときは、どう感じたのか。彼らの音楽性や精神性は、X JAPANにどのような影響を与えているか。
2010年の日産スタジアムでTAIJIがゲスト出演したとき、HEATHはどんな心境だったのか。そして、TAIJIがそれまでX JAPANのメンバーではなかったにもかかわらず、亡くなったとたんにメンバーのような扱いを受けていることに何を思うのか。
SUGIZOの加入はX JAPANに何をもたらし、ほかのメンバーは彼をどう見ているのか。
そういったことも盛り込んで、より『We are X』にしてほしかった。
そして、内容の濃い映画ではあるものの、出来事のほとんどを知っている身としては、どこか物足りなさを感じてしまった。X JAPANの長く濃密な歴史とそこに渦巻く感情を90分に凝縮するなんて不可能だから、どんな傑作でも物足りないのは当たり前なんだけど。
あと、欲を言えば、せっかくテーマ曲として書き下ろしたLa Venusをもう少しフィーチャーしてほしかったかな。

●SUGIZOの一言
この映画には、とても印象的な一言というものがいくつか出てくる。上に書いた、Toshlの「でも、生きてるからね」もそうだし、あとは、PATAが解散ライブを振り返って言った「あいつ(HIDE)と一緒にやったのって、あれが最後なんだよな」も。
それから、SUGIZOの言葉。映画の終盤、彼はこう言っている。
「X JAPANの音楽って、痛みに寄り添う音なんですよね」
この一言は、「私にとってX JAPANとは何か」を端的に代弁している。
ああ、そうなんだよな、と思う。エネルギーとか破壊的とか熱狂とか不屈とか、いろんな言葉を持ち出してみても、私がどうしてこんなに魅了されているかって、結局は「痛みに寄り添ってくれる」という一言に尽きる。SUGIZOは、メンバーでありながら、X JAPANを外側からも見ることができる人だ。だから、こういうことが言えるんだろう。

●すでに過去
映画は、2014年10月のマディソン・スクエア・ガーデン公演の密着を軸にしている。2年半前のこと。つまり、映画の中で最新の映像も、すでに過去のことなのだ。
すべては、過去のこと。彼らは、常に「いま」を生きている。それが、一番大切なことだと思う。

●自分のペースで観たい
この映画は、録画したものを必要に応じて一時停止したりしながら、ぜひ自分のペースでもう一度観たい。いろいろな映像が目の前を足早に通り過ぎていって、思考が追いつかないところがある。じっくり考えながら、かみしめながら観たら、また新たな発見があるかも知れない。


桜井弓月 |TwitterFacebook


My追加

© 2005 Sakurai Yuzuki