月に舞う桜
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アマゾンで本をまとめ買いするときは、できるだけいろんな作家の小説を1冊ずつ買うことにした。そうやって意識していないと、私は特定の作家の本ばかり何冊も買ってしまう。 あるとき、未読本を並べておく場所が江國香織だらけになってしまい、本を読みたいけれど彼女の世界に浸りたい気分ではなくて困ったことがあった。 それでちょっと懲りて、いろんな色、いろんな空気の本を揃えて置くようにしようと思ったのだった。その日の気分に合わせて本棚から選べる方が、読書がぐっと楽しくなる。 とは言え、私の好みはわりと狭いので、「いろんな」本はあまり並ばないかもしれないけれど。
この前アマゾンで買った中には、安部公房が1冊ある。 私が安部公房の小説に出会ったのは、高校生のときだった。国語の時間、授業がつまらなかった私は教科書をぱらぱらめくっていた。そのときタイトルに惹かれて読んだのが、安部公房の「赤い繭」だった(新潮文庫から出ている『壁』に収録されている)。 公園が「みんなのもの」であって「俺のもの」でないのはなぜか、あの家が他人のもので俺の家でないのはなぜか。そう問いかけながら町を彷徨う主人公の姿が頭に浮かんで、ずっと離れなかった。あの小説は、そのあとも長い間、私の中に強烈な印象を残すこととなった。 「赤い繭」が授業で取り上げられることはなかったけれど、私は確かに高校の国語の教科書で安部公房との出会いを果たしたのだった。 私はよく、授業がつまらないと教科書の関係ないページを読み耽っていた。国語では、ほかに志賀直哉とも出会った(読んだのは「城之崎にて」だった気がするけれど、記憶があいまいで定かじゃない)。歴史や公民、政治経済の授業でも、教科書の隅っこに書かれたコラムを読むのが好きだった。
ゆとり教育が叫ばれて学習内容が削られるとともに教科書が薄くなり、今また、そのゆとり教育が見直されようとしている。 どの時期にどれだけのことを学習するべきなのか、私には分からない。ただ一つ言えるのは、私は薄い教科書には反対だということだ。 教科書は出会いの場だ。何も、そこに書かれていることを全て教える必要はない。余剰なものが含まれていれば、それだけ出会いの機会が増え、世界が広がっていく。教えようとしなくても、自ら学ぶ契機となる。それが、教科書の重要な役割の一つだ。 やり方によっては、ゆとり教育もいいと思う。でも、最低限のことしか書かれていない薄い教科書を与えることによって、子供から出会いの機会を奪うことだけはやめてほしい。 今の教育再生会議だかなんだかのニュースを見ていると背筋が寒くなることも多いけれど、薄くなってしまった教科書が見直されるなら、その点だけは期待したいと思う。
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