月に舞う桜
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2005年12月11日(日) |
★「書くこと」とその周辺★その3.言葉を伝えることの責任とその限界、それでも…… |
自分が物書きとして発した言葉には、責任を持ちたいと思う。 それにはやはり、自分の言葉を自分の手で伝えるしかない。 この日記や小説のように、私が感じていることを読者の方にダイレクトに伝えられる手段であれば、その言葉がどんなに批判あるいは批難されても、全ての責任は私にある。 間違った受取られ方をしたとしても、たいていの場合は誤解を与えるような書き方をした私の側に責任がある。 けれども、誰かや何かを媒介にすると、私の与り知らぬところで言葉は形を変えていくし、それだけ真意は伝わりづらくなる。 媒介となる人の数だけフィルターを通すことになるのだから、「私が伝えたかったこと」は少しずつ少しずつ微妙にニュアンスを変えながら読者に辿り着くことになるのだ。 そして、そういった伝言ゲームの場合、言葉が最後まで行き渡った頃には最初の発信者は為す術がない。 だからと言って、もちろん発信者としての責任を全部放り投げてしまうことは出来ないし、するつもりもないし、したくもない。 「他者を媒介として言葉を伝える」という方法を選択したことには、大きな責任があるのだし。
私に直接の責任がなくても、全てのことは私の責任なのだ。 大学のときに出会ってとても惹かれた思想家レヴィナスを、「書く」という行為と結び付けて今でも時々思い出す。
何にせよ、何かを発信するとは余程の覚悟がいることなのだ。 そして、その「余程の覚悟」には、「どーんと構える大きな心」という意味も含まれているように思う。
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