月に舞う桜
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2005年11月05日(土) |
セリヌンティウスにしびれる |
某テレビ番組で、『走れメロス』のあらすじを3分のアニメで紹介していた。 アニメが終わって、解説者が言った。 「日本人は体制に一人で立ち向かっていく人にしびれるんですよ。例えば小泉総理なんかもそうですね。自民党の古い体制に一人で立ち向かって、今回の選挙でも国民からの絶大な後押しを受けて郵政民営化法案を成立へ持って行ったわけです」 うーん、それはちょっと違うんでないかい? 確かに総理になりたての頃はそうだったかもしれないけど、こんなに何年も内閣が続いて、郵政民営化のために衆議院解散までした今となっては、彼自身が体制側の人なのだと思うけど。 反体制は、体制を倒せば即その座を奪って立場が逆転する。勢いがなければ反体制として「英雄」になることはできないけれど、勢いがありすぎると反体制ではいられなくなる。そんなものだ。 メロスを政治の世界、それも体制のトップに例えられると少々白ける。
それに、確かに日本人は体制に一人で立ち向かっていく人にしびれがちだけれど、そういう「英雄」は「後先考えないただのアホ」と紙一重でもあるわけで。 大事な妹の結婚式を控えているのに一人で城に乗り込むのは、普通に考えれば正気の沙汰ではないと私は思う。 にもかかわらず私が『走れメロス』を「よいな」と感じるのは、最後にセリヌンティウスと殴り合うからだ。 厳密に言えば、「私を殴れ」と言うメロスをちゃんと殴ったセリヌンティウスの方にしびれてしまう。 私は天邪鬼と言うか、どこかすれて歪んでしまっているので、素朴な正義感からメロスが城に乗り込んだり人質に出した友人のために走ったりするだけでは、「へぇ、恐ろしく奇麗事な話だな」で終わりだっただろう。 いくら心底信頼し合っている友人とは言え、人質になってくれと頼まれたら神経を疑ってしまう(自分から身代わりを申し出ることはあるかもしれないが)。 でも、最後にセリヌンティウスがメロスの気の済むようにして彼を解放してやったことで、私は彼らの友情をリアルなものと感じることができた。 ああ、彼らの友情というのはそこまで深いものだったのだなと、そこで初めて真に納得ができる感じだ。 何らかの罰を与えることは、場合によっては許すことそのものだから。
もっとも、私が一番しびれるのは、内容ではなく太宰のテンポの良い文体なのだけれど。
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