月に舞う桜
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2005年10月21日(金) |
★「書くこと」とその周辺★その2.「物書きであること」が全てなわけじゃない |
私の体には物書きの血が流れている。 DNAではない、私が固有に生成あるいは獲得した血だ。 例えば頚動脈を切ったなら、流れ出る血は「物書きの血」であってほしいと思う。 けれども、「体のどこを切っても物書きの血が流れる」というふうにはなりたくない。 私にとって「書くこと」は大切で、主要なアイデンティティの一つだ。 でも、「物書きであること」が私の全てではないし、何かが全てであるような人間でいたくはない。 あえて言うなら、物書きであること、桜井弓月であること以前の原始的な「私」、それが全てだ。
私は、「桜井弓月以外の部分」で物事を見ていることが多い。 そのとき、私は物書きであることや桜井弓月であることを自ら進んで忘れている。 例えば友人といるとき、私は桜井弓月という名前を捨てて本名の私で存在している。 例えば、今勉強している資格を取得して、その資格を活かして仕事をすることがあるなら、私は今までとはまた別の「私」を獲得することになるだろう。 例えば恋人がいるなら、その人の前で私はあらゆる立場を脱ぎ捨てて、ただの女でいるだろう。 そのどれもこれもが、私にとって物書きであることと同じくらい、いや、もしかするとそれ以上に大切な「私」なのだ。 そして、そういう時間が逆に「物書きとしての自分」を作っていく。 日々、物書きの血を生成しつつ、その血を巡らせてフル活用するのは、実際にパソコンに向かってキーを打つそのときだけでいい。
とてもとても好きな人がいるとして、その人が隣にいるとき、見慣れているはずの風景がいつもとまったく違った色を帯びることがある。 そのとき、私は目の前の美しい風景を言い表すことなどできなくてもいい。 むしろ、言葉になどできない人間でありたいと思う。 ただ「言葉にできない」ということを感じられる、その方が私にとっては余程価値がある。 「どうして言葉にできないんだろう」と言いながら、そのことに酔っていたい。 それが、原始的な「私」で在るということ。
もしも「その風景」が物書きの血と引き換えにしか手に入らないなら、私は喜んで、その血の全てを手放すかもしれない。
「書くこと」は大切。誰にも奪わせない。 けれども、物書きであることよりももっと輝かしく、もっと貴重で失えない瞬間が、「物書き以外の私」の中に存在するということを、私は知っている。 それを知っているということが、物書きとしての一番の誇りかもしれない。
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