月に舞う桜

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2005年10月11日(火) ★「書くこと」とその周辺★その1.ばななパワー

※今日から当日記にて、「「書くこと」とその周辺」と題して、物書きであることや物を書くことについて
 桜井が日々感じたり考えたりしていることを、不定期で綴っていきます。
 日記タイトルの前に★「書くこと」とその周辺★とついているものは、内容が日記ではありませんので
 悪しからず。
 果たしてシリーズ化できるのか……?

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プロフィールにもある通り、私はよしもとばななさんの小説が好きだ。
初めてばななさんの小説を読んだのが確か中学生のときだから、かれこれ10年以上愛読していることになる。
その間、「新刊が出れば即買う」というような真面目なファンをやってきたわけではないけれども、彼女の小説は今でも気持ちにぴたっとはまるところがあり、私の心を充たしてくれる。

そんなばななさんが、糸井重里さんのサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」でコーナーを持っている。
ちょうど原稿で切羽詰っていてどうしようもないとき、そのコラムを読んだ。
そのとき、自分でも驚いたのだけど、私は読みながら涙ぐんでしまった。
ばななさんの文章から何か途方もないエネルギーをもらって、自分にエネルギーが湧いてきたことに安心したのだと思う。
いや、正直なことを言うと、自分があんなふうに迷いのない文章を書けないことへの悔しさも、あったかもしれない。
とにかく、そんな感じで涙しながら、「ああ、私は自分で思っているより結構追い詰められていたんだな」と自覚したのだった。
そう自覚したら、今度は開き直ったのか、そのあとは却って原稿に集中することができた。
恐るべし、ばななパワー!

コラムの内容は、別にどうということはない。
感動的な話でもなければ切ない話でもなくて、ごく普通の、日常生活で起きたちょっと気になることが書いてあるだけだ。
つまり、内容自体には、どこにも涙の要素がない。

私が圧倒されてしまったのは、彼女の文章に溢れる潔さだ。
小説を読んでいても感じることだけれど、ばななさんの文章はとても潔い。
それは、生きることへの潔さでもあって、人生での悲しみや寂しさや悲惨さや他人に対する甘えというものがない。
物書きとしての腹のくくり方、みたいなものが、文体から滲み出ているのだ。
「自分の意志で、覚悟を決めて物書き始めたんでしょ、これくらいの心意気がなきゃ、やっていけないよ?」とでも言われているみたいな……そんなことは一言も書いていないけど。
私の中にある覚悟を試されているような気がした。
だから、「それなら、やってやろうじゃない」と思って、原稿に戻ったのだ。

そして、もう一つ彼女のコラムから学んだのは、自分の日々の生活で起こる出来事や周りの人たちと丁寧に接することが、いかに大事かということだ。
私はどうしても、「自分の周辺で面白いことがたくさん起きる人と、そうでない人がいる」と考えがちだ。
でも、本当はそうではないんだ。
自分がいかにアンテナを張って身の回りのことをキャッチしているか、なのだ。
何が起こるか、の違いではなくて、自分がどれだけのことを感じ取れるか、の違い。
ばななさんは本当に、ちょっとしたことを自分の中にうまく吸収して、そしてきちんと自分の目を通したアウトプットの仕方をする。

好きな人の言葉というのは、こうやって私の背を押し、手を引いてくれるのだ。
そして、私が物書きであることを自覚させる。


ほぼ日刊イトイ新聞
(よしもとばななさんのコーナー「U.M.A. 未確認動物」は毎週水曜日更新です)


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