unknown
DiaryINDEXpastwill


2001年04月30日(月) (fake 007 岡田光玉の真実)

田光玉の真実



光記念館の真実(4)――偽りの教団史 No: 5675 [返信][削除]

投稿者:崇教インサイダー 03/04/05 Sat 22:16:20
 光記念館に展示されている教団史は、昭和20年終戦から、昭和34年立教までが空白となっている。この間の史実は、以下の書籍で得ることができる。

[1] 新宗教辞典 東京堂出版 S59.9初版
 上越教育大学教授 松野純考編著

[2] 新宗教事典 H2.3.10初版 発行:弘文堂
編集:國學院大學日本文化研究所助教授 井上順孝
   明治大学商学部教授 孝本貢
   関西学院大学社会学部助教授 対馬路人
   国立民俗学博物館助教授 中牧弘允
   東洋大学社会学部教授 西山茂

[3] 新宗教教団・人物事典 H8.1.30初版 発行:弘文堂
編集:「新宗教事典」に同じ

[4] 神道人物研究文献目録 H12.3.30初版
編集:國學院大學日本文化研究所 発行:弘文堂

 それでは各文献に記載された内容を紹介する。

1. 岡田光玉
 [1] 201頁
 昭和十八年インドシナ戦線に配属されたが、重症のカリエスを発病して帰国。当時、世界救世教の有力信者だったことがある。
 [2] 840頁、[3] 380頁
 戦後、世界救世教に入信して教団の有力信者になっている。
 [4] 140頁
 世界救世教の有力信者を経て、昭和三十四年に世界真光文明教団の前身であるL・H陽光子友乃会を設立する。
 【研究書】
  笠原一男『現代人と仏教―親鸞・蓮如・新興宗教の七人の教祖たち』評論社、1971。
  猪野健治・梅原正紀・清水雅人『民衆宗教の実像―十二人の教祖たち』月刊ペン社、1972。
  畑中幸子編『現代のこころ−崇教真光』旺文社、1987。
  『アカデミア』人文・社会科学57、1993。

2. 岡田恵珠
 [2] 840頁、[3] 381頁
 本名・甲子(こうこ)。神名・聖珠。昭和四年(一九二九)一二月一六日−−
 世界真光文明教団の創始者である岡田光玉の養女。
 初代教え主の死後、二代教え主の就任をめぐる裁判に敗訴し、昭和五三年新たに崇教真光を設立。

3. 世界真光文明教団
 [2] 475頁
 世界救世教の支部長をしていた光玉は、昭和三十四年(一九五九)、五日間の人事不省から覚めると「天の時到れるなり。起て、光玉と名のれ。手をかざせ。厳しき世となるべし」との神示を受け、L・H陽光子友乃会を設立して活動を開始、翌年宗教法人となった。

<上記書籍の図書館での所蔵状況>

岐阜県内の公立図書館 http://www.library.pref.gifu.jp/oudan.htm
 [1] 県立、恵那
 [2] 県立、関、美濃加茂、大垣、池田
 [3] 県立、可児、白鳥、海津、池田
 [4] 県立

全国の大学・研究所の図書館
 [1] 117個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN0079840X
 [2] 291個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN04347570
    82個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN11093993
 [3] 161個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN13693823
 [4] 74個所 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA46403053

 結論的には、光記念館になど行かなくても、最寄の公立図書館で事典類を調べれば、正確な知識が身につくわけだ。こんな博物館ははっきりいってインチキだ。岐阜県登録博物館は取り消されて当然である。
 なお井上順孝氏は現在、国学院大学神道文化学の教授である。
 http://www.kt.rim.or.jp/~n-inoue/




立教の疑問? No: 3866 [返信][削除]

投稿者: 03/01/05 Sun 00:44:02
「神示」により立教し、教義を構築して行ったと伝えられていますが、それと同時期に、岡田光玉による、情報収集には余念がなかった事実があります。
崇教真光で伝えられている部分では、朝な夕なに神からのお告げを書き留めて行ったと伝えられているにも関わらず、他宗教を調べ上げていた。
そして出来上がった教義は、誰が見ても寄せ集めと分かる内容になっている。
岡田光玉が情報収集をする理由が見えて来ない。
立教時の近辺を取り巻く環境からも、意図的に作られた教団で有ることは確かに思える。
本山建設までの間には、組み手に掛かる負担は相当なものであり、分裂した双方の権力争いに、組み手達が巻き込まれた形にもなっていたようだ。
崇教真光の2代教しえ主、恵珠に至っては、宗教的知識に関しては皆無に等しかった。
光玉の死後、恐怖に怯えていた恵珠を周囲が持ち上げ煽り、見事にお登りさんに仕立て上げたと言われている。
信者数を稼ぐ為の、苦肉の策と言うところだろう。
残された分裂派同士で、適役を奉り上げたと言う事のようだ。
ここまで来ると、下らない権力争いに気付く組み手達が、更に分裂を始めた。
分裂に関しては、現在も続けられているようで、各道場レベルでの分裂騒ぎも絶えない。
当然、月始祭や大祓祭ではゴーストライターが存在し、光玉の録音テープに続いて、恵珠の棒読み教示には呆れたものだった。
隠しようのない事実が明らかにされる一方で、深く洗脳した信者達が教団を擁護する事まで計算に入れていたとも思われる。
過去の教団関係者が口を割る事で、明るみに出た情報を覆す事は出来ないだろう。
それらを如何に知られる事なく運営して行くかが、崇教真光の教勢拡大に繋がると思う。
それらを知りながらも、残れる組み手も居るようですけど。(笑)




「無私の愛よ永遠に」平成二年刊 −たま出版、瓜谷社長の証言−

たま出版に瓜谷社長は初期の真光組み手であり、光玉のとの経緯を「無私の愛よ永遠に」平成二年刊に於いて書き残している。

(瓜谷氏の超宗教・超宗派への道の提言に対して)
以下引用

〔前略〕

顕著な真光の業の実績などにより信者が増えるに従い、やはり通常の宗教セクトと同じような団体を形成し、数ある新興宗教団の一つとしてひたすら信者数を増やすという量的拡大の道を歩み始めた。

間もなくS界真光文明教団という麗々しい名称の下に宗教法人の認可が降りた。 そしてしばらくは世田谷区にある自宅兼事務所で布教活動を行なったが、本部になる殿堂の建立の計画がされ、東横線沿線の格好な土地が求められ、その建設が始まった。 その着工に先立つ地鎮祭の時、私も妻もその式に列席した。 式の途中、何故か物凄い突風吹き、周囲に張られた式幕が風で吹き飛ばされそうになった。 妻はこの余りにも強烈で、突然の風が、何かの予兆だと言い、本教団の前途が波乱に満ちたものであることを示すものと私に語った。

そしてこの予言は的中した。 本殿ができたのが昭和四十三年三月、その後教団自体は大いに伸びたが、初代教主O師(光玉の事)はその六年後、昭和四十九年六月、この本殿で、突然の急死をしてしまった。 その直後から後継者をめぐって二人の人物がそれぞれの正当性を主張し譲らず、遂に裁判まで持ち込まれ、その決着に五、六年を要した。 その結果一方が名称を変え、同じ教義の下に、同じ初代教主をいただいて、宗派活動をするようになり今日に至っている。 間もなく正式名称継承した方の教団から、第三代を名乗る人物が現われ、別派をつくり三つの教派に分裂してしまっている。

思うにこれはあらゆる宗教セクトが陥る宿命的な運命である。 宗教の時代はとっくに終わっているのに、現世的な名誉や財産に捉われ、神の経綸を説きながら、自らはそれを実践できないでいるこの悲喜劇が多く繰り返されている。 ああ何と悲しむべき現象であろうか。

この立派に殿堂が建つ前後よく妻と語りあったものである。

「これからの人を教化する宗教あるいは精神運動の場はすべからく幕舎でなければならぬ」そのように神(妻の)から授かったと彼女は何度も私に語ったことがあるが、私もその通りだと思った。 こういう点では不思議なことに、二人は必ず意見が一致し、何の葛藤もなくお互いの心中を語りあうことができた。

この本殿の建立が始まった頃、本来なら幕舎であるべき所なのにという思いと、万時に宗教セクトをますます強化し信者の拡大に走るその姿と、主神の代行者よろしく自らを特別神聖化して行くO師(光玉氏の事)の行方に、これではついていけないとの思いがつのった。 そしてある日二人で世田谷の本部に伺いO師(光玉氏の事)に面会した。 その時二人は信仰を離れることを決意はしていたが、いきなりそこまで言うのは、多年導きいただいた教主たる師に礼を失すると思い、その時は取りあえず、道場長、その他幹部的な役をいただいていることを辞したい旨お願いした。

師は顔色を変え、いつもの温顔がきびしくなった。 師は静かに信仰をやめかねない二人の態度に、もしこの信仰を去れば、それなりの罰や祟りがないとは言えない。 またこれから何かにつけ神の庇護を受けられなくなると、翻意を促すように告げた。 厳しい一瞬であった。 入信間もなく訪れた二階にある神殿のあるご本部の日本間である。 師の言葉は、決意の決まったわれわれ二人には空しかった。 しかし温情ある師から受けた現世的恩義は忘れることはできない。 それは感謝せねばならないし、その気持ちは十分あった。

そして師は、その豊かな霊感を見抜いて、妻に、もし将来あなたが、霊的な指導者として独立するなら援助は惜しまない。 だからもうしばらくここで修行を続けなさいとも語った。 しかしそれは妻が最もなりたくないことで、心中はとんでもないことと思ったが、その場ではその過分なお言葉に、最大級の謙遜な気持ちをこめて、師にその好意を感謝しつつも、はっきりご辞退申し上げた。 このような妻には人一倍強い霊感、霊能を持っていながら、これで信者を集めたり、これを仕事にするようなことは全然念願になかった。 やはり本質はあくまで精神世界的な、一求道者であった。 その意味では二人は文字通り、同じ道を歩む互いにかけがえのない同志であった。

このような一幕があって、折角本部殿堂ができたというのに、二人は次第に足が遠のいていった。 どんな立派なものであろうと、いや立派で堂々たる殿堂である程、二人には何の魅力もない空しいものしか思えなかった。

〔後略〕

<注> 

教団を去れば神の守護が受けられなくなる、罰や祟りがないとはいえない...と、教祖の岡田光玉氏自身が言っている。それ故、現在の真光系教団もこの体質を受け継いでいると言えよう。




Re: あれ?(天杖) Prev: 2169 / No: 2178 [返信][削除]

投稿者:  02/11/11 Mon 00:05:25
> 岡田光玉氏の立教前の経歴をあれこれ誹謗中傷される方々がおられます。
> 少なくとも立教時のエピソードは大勢の人達が立ち会った「天杖」でスタートします。
> 近年でも崇教真光の大祭でご来賓に、政治家と同様に宮司さんを初めとする宗教界の
> 方々が断然多いのも、本エピソードに起因しているように存じます。
>
今となってはそれらの人々を金で踊らせてる可能性があるのも事実です。
救世教の経験を生かして立教した事は間違いないのですからそれらを隠蔽すると言う行為が何を意味するのか分かりそうなもんですけどね。
他教団に対抗する為には教祖の絶対権威が必要だった訳です。
政治家や軍隊関係に太いパイプを持っていた岡田光玉が何を重い立教したのかは今までの教団の経歴と生前の光玉自身の身成を見れば分かると思います。
全身に一流を纏い宝飾品で飾り付けた容姿は誰が見ても人救いの為の姿では無かった筈です。
大げさな口調に派手な格好。
あれは正しく胡散臭い詐欺師の容姿その者だと記憶しております。

--------------------------------------------------------------------------------
Re: あれ?(天杖) Follow: 2239 / Prev: 2207 / No: 2234 [返信][削除]

投稿者:2139 02/11/12 Tue 23:10:31
>何か絡まれるようなご質問が続くので、

私が源伸さんに絡んでいるかのように見えたと言うことでしたら謝罪致します。申し訳ありませんでした。

私の質問は真光という教えに対する一般的な疑問であり、頂きましたお答えでは、だれも納得、満足できないものですので、満足がいくまで十分な質問をさせて頂いている次第です。別に源伸さんに対して悪意の感情を持って質問を申しているのではありませんので、なにとぞ誤解無きようお願いします。


>貴兄は救世教の信者ですか? それとも真光の組み手
>ですか?

私は、「真光の教義と光玉氏の過去の矛盾に疑問を持つ多くの者のうちの一人」であり、「しかし源伸さんなら、誰もが納得のいく回答を呈示してくれるだろうと期待していた者」です。これ以上のプロフィールはこの質疑応答には不要だと思います。私にも源伸さんのプロフィールは、この質疑応答に必要ありません。


ではここまでの議事録を残します。一応一つの結論を出してあります。

           = = =

昭和34年の神示は捏造品であると言われている。なぜなら
  光玉氏は昭和24年ごろから 昭和32年まで手かざし宗教である
  世界救世教に所属しており、 神示として教えていることは
  すべて救世教の教えとそっくりであり、世間から見ると
  単なる焼き直しにしか見えない。
  しかし、光玉氏は過去の経歴を隠して自分のオリジナルで
  あるかのように言っている。
  
  問題点は二つあり、一つは光玉氏は本当の経歴を教義から
  隠している事。もう一つは、神示と本当の経歴に矛盾があること。


  これを一つ一つ別々に解明していきたい。


Q1  そもそも、光玉氏は、なぜ世界救世教との関係を隠したのか?その霊的意義、信仰的意義はどこにあるのでしょうか?

A1 本スレで岡田光玉氏に直接講義をいただいたという方が以前に発言されておりました。よく救世教や他の教団で勉強されていたことは語られていたそうです。

Q2 はい、それでは、光玉氏が立教して間近なころはそういう問答もあったとします。つまり隠していなかったとします。しかし現在は、真光から発行されているあらゆる教えの中に救世教の 文字がない、いかなる段階の講習を受けても光玉氏が世界救世教に在籍し布教をしていたということを教えていないと聞いています。つまり今は隠しているのです。

なぜ、昔は明かしていたことを、今は隠しているのでしょう。その霊的意義、信仰的意義はどこにあるのでしょう。

A2 隠しているのではなく、敢えて言っていないだけだと思いますが。

結論 「言わなければいけないことを敢えて言わない」ことを世間では隠している、といいます。最初に書きましたとおり、昭和34年の神示そのものの真偽が疑われている最大の問題点である光玉氏と世界救世教との関係は、たとえ聞かれなくても言わなくてはいけないほどのことだと思うんです。

正直申し上げて、源伸さんからこれ以上の返答を頂くことは不可能でしょう。源伸さんは、これほどの重要事である世界救世教と岡田光玉氏との関係を、どうやら「大した問題ではない」と思っておられるようだからです。

今回の質疑応答では、世界救世教と光玉氏の関係については何一つ解明することは出来ず、源伸さんが普通の人と違う非常に個性的な価値観の持ち主であることだけが分かった次第です。おそらく「インチキ勲章」の件も、さして重大なことと思っておられないのでしょう。せっかくこの件をまともに返答して頂けるかと期待しておりましたのに、とても残念です。

我々が必要な物は、教祖の経歴と神示の矛盾を、とても重大なことであるという正しい認識が出来る方から、教義としてなぜそのようなことになってしまっているのかという明確な返答です。残念ながら源伸さんは、それがお出来になる方ではありません。私としては、同件を真剣に返答してくださる方がこの掲示板に現れるまで、これらの質疑応答を保留することにさせて頂きます。

源伸様、おつきあい頂きありがとうございました。




Re: 原伸は Prev: 1844 / No: 1855 [返信][削除]

投稿者: 02/10/27 Sun 01:24:53
> 光玉が救世教の幹部であったことも、大道場クラスの古参の組み手は知っている。もう70過ぎのおばあさん組み手だが、「救い主様って救世教にいたの」と聞くとちゃんと答えてくれる。古参の組み手は事実として知っている

当然のことだが、救世教の中でも真光の教祖が教団にいたことは常識。
高齢の人の中には直接の知人もいるわけだしね。
救世教の信者にとって「真光の教祖は昔救世教に所属していた」
ということは、例えば日本人にとって「昔、平賀源内という発明家が
日本にいた」というのと同程度くらいの常識だね。

>> 特に「暴かれた真光を読め!」と繰り返す輩は要注意です。
>> どうして、日本人でも入手困難な立教前のエピソードや写真を、海外組み手
>> が容易に入手できたかと考えると、極めて不自然だということです。

源伸がいっつもこればっかり言っているけど、
これは実はさほど不自然でも希少な情報でもなくて、岡田光玉が
所属していた救世教の博愛教会というところの責任者は海外布教
担当でもあり、それを支援して外国に渡った人たちも当然その弟子たちで、
つまり海外では博愛教会所属者と会うのは比較的簡単なわけ。
で、博愛教会の中では岡田光玉のような存在は特に常識であり、
その人が昔のアルバムをひっくり返せば岡田光玉が写っている写真
もあった、というただそれだけのこと。

つまり岡田光玉にとって運の悪いことに、追求の火の手が
上がったのが海外からで、岡田光玉が救世教で所属していた
教会も海外担当だった。だから嘘が海外からばれた。と、
こういうことでした。悪いことは出来ないね。


unknown