希望の日記

2010年08月16日(月) 晴れ

女がいるだけで、苦痛で、不快で不安だ。いつまでもなれない。うまく処理することができない。一緒にいるなんて不可能だ。欲情されるのも辛い。女が存在し、感じ、考え、危害を加えてくることは耐えがたい苦痛だ。苦痛を与えられて、好きになることはできない。安心していることも耐えることもできない。これらが私が女を嫌いな理由だ。それは性欲をはるかに上回る。性欲は間歇的なのに対して、受ける苦痛は絶え間ない。果てしない。到底耐えることは困難だ。
穏やかで怒らないこと。悪のコントロールから脱する方法はないのだろうか。もう40年来苦しめられ、損害を受け、疎外され、楽しめない、不幸になるこの悪からのコントロール。せめてニュートラルになる方法はないのだろうか。仕事を好きになり、人を好きになり、自分を好きになれば、自ずと悪を排除でき、コントロールできる。人は生まれながらに善でも悪でもない。後天的に条件付けられていく。私は善の条件付けを一切無視して、悪の方に暴走した。その結果何もかも失い、孤独で不幸になった。でもきっと救われる道はある。宗教でも、何でもいいから、救われる道を求めよう。
悪と狂気は良く似ている。同じものかもしれない。自己に執着し、幸せに感謝できなくなり、もっと自分だけ欲しいと思い、外界から遮断し、自我と欲望を際限なく膨らませている状態。外にある真理や宝物を受け取れなくなっている状態。この世は感謝、感動に値する素晴らしいもので満ち溢れているのに、いくら与えられても満足できなくなり、感謝できなくなり、ついには宝物を壊そうとしたり、命を損なおうとしたりする。これが悪と狂気の正体だ。それは全くの幻だ。自我の作り出した幻に支配された病的な状態だ。今、私は長いことかかってそこを脱しつつあるのかもしれない。それは幸せなことだ。感謝だ。受身に徹することで、この世の宝を私もいくらでも飽き足りるほど、享受出来るはずだ。私が軽蔑するあのきちがいばばあはあんな奴なのに、飽き足りるほどこの世の幸せを享受し、何も持たない私から更に奪おうとし、それがかなわぬと知ると危害を加えようとする。あのきちがい婆だけじゃない。あの職場にいるみんながそうだ。そんな危険な場所にいけなくなるのは当たり前のことだ。でもそんな場所を宝物に満ちた、感動と感謝の宝庫にする方法がある。私はそれを半ば知ってしまった。これからはそれを実践して確かなものにするだけだ。それは受身に徹し、真理の声に耳を澄ますことに他ならない。自我を滅し、感謝に徹し、ただひたすらこの世の真理を受け取り続けることに他ならない。神のメッセージを受け取り続ける受容体へと変貌することに他ならない。
自我なんかくだらない。受身に徹し、神のメッセージを受け取ろう。この世の宝物を享受し、感動と感謝の日々を送ろう。


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