今日はよく眠れた。良かった。断続的だったが、朝まで眠れた。耳鳴りも軽減したようだ。すごく良かった。自分に何かしてくれないと困る人間が私に危害を加えてくる。首にすればよかったんじゃないのか。危害を加えるな。私は許すわけにはいかない。絶対に許すわけにはいかない。気違い教師は私をいじめることがサービスだと考えていた節がある。途方もない考え違いだ。男の教師の勘違いだ。死んだらいいのにと思う。 今日は眠れたのに、眠くなってしまった。でも仕事を見つけてそれをやっていて、何とか過ごすことができた。会社で変な女が絡んでくる。女はこりごりだ。もう絶対に関わらないと決めている。好きになる必要はないんじゃないか。自分を攻撃してくる人間を好きになる必要はない。 誰からも好かれようとするのはどうかと思う。友と敵を区別しないといけない。誰からも好かれるなんて無理だ。友と仲良くし、敵とは仲良くしない。 博愛とは愛しづらいものを愛することだ。でも自分を攻撃するものを愛せるだろうか。イエスはそうしろというだろう。でもできない。自分を攻撃するものは愛することはできない。自分のパーソナリティーを確立するためにも悪を憎まないといけない。善を愛し、悪を憎まないといけない。悪を憎むことは手ごたえを感じる。悪は憎いものだ。好きにならなくていいのだ。 自分を攻撃するものは悪である。そのことをはっきりしよう。相手がどんなに強くても自分を攻撃してくる場合は抵抗しよう。自分の人格を確立するためにもそれが必要である。自分に敵する人間を遠ざけ、味方する人間を近づけるのは当然ではないだろうか。好き嫌いというのは当然ある。 あの女は気まぐれで好き嫌いが激しく、相手にできない。難しい。全否定するのではないが、遠ざかりたいものだ。 好き嫌いをいっているのではなく、あなたのその行動が嫌いですといえばいいのではないだろうか。本当にそうなのだから。ある人の自分に対する行動が嫌だったとしても、めったにその人すべてが嫌いになるわけではない。まあ、あの婆は特別だが。その人のこの自分に対する行動が嫌いだといえば、おのずと選択してくるんじゃないかと思う。あいつらだって、全部が嫌いというわけではなく、特定の行動が嫌いなのだ。それでいいじゃないか。嫌いな行動が多ければ、自然と嫌いになる。当たり前の話じゃないだろうか。当たり前のことができることが自分の人格を確立する、いい方法だと思う。嫌いだと思う行動をとることが多い人間ほど嫌いになる。こんな当たり前のことはない。 自分を嫌い、攻撃する人間を嫌いになるのは当然のことだ。自分にその当然の行為を許そう。そうすると世界が開けてくる。 政権が交代した。自分好みの世の中がついにやってきた。長年我慢してきた甲斐があった。今花開いた苦労という感じがする。私は変わらず、善と徳を追求して生きたい。 好き嫌いをいうわけではない。自分のために嫌なことは嫌ということだ。あいつは前からあんなことをする。そんなことをされるいわれはない。私が調子悪いからといってそんな扱いを受けるいわれはないのだ。私は調子が悪い上に、そんな攻撃を受けるいわれはない。 頭が痛くなる。考えすぎか。脳にダメージを受けている上に、何で攻撃を受けないといけないのか。ダメージを受けた以上はゆっくりしたい。ゆっくりして、なおかつ業績を上げたい。
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