健常者は障害者を怖がる。無知からくる恐怖が強烈にあるようだ。私は逆に健常者が怖い。いじめられたり、差別されたりするんじゃないかと思うと不安になる。自分が相手を傷つけそうで怖いと思うこともある。 これからは真面目に生きていこうと思う。ふざけている暇はいくらなんでももうない。そのうちに人生が終わってしまう。今からでも真面目になれば、ならず者の私にも使い道はある。使える部分と使えない部分の切り分けが肝心だ。希望は捨てていない。高望みはしないが、ささやかな幸せをつかめるチャンスはあると思っている。統合失調症になろうと、脳梗塞になろうと幸せになる道はある。 気を使っていこうと思う。これまで以上に気を使い、慎重に用心深く生きていこう。善を心がけ、夢想家にならぬよう、現実に即して生きていこう。気を使わずにすむように人を避けて生きてきた。社会から逃避して生きてきた。ついに再発してしまった。これからは基礎から気を使う練習をしようと思う。荒くれ者は卒業だ。慎重に気を使って生きていこう。調和ということを考えよう。仕事にも気を使って生きていこう。 健常者と適度な距離を保つことも必要だ。人は優しくしてくれる。私は中長期的なサポートが生きていくうえで欠かせないと思っている。甘えではなく切実に必要だ。自分の中に今ないものはそう短期間には身につかない。その間、自分を見てくれる目と手が必要だ。それさえあれば、社会に貢献しつつ生きていくことは可能だと考えている。 優しくしてくれるということは警戒を解いていないということの裏返しでもある。でもそれでもいいと思っている。社会の中で生きていくことを許してもらっているだけで幸せだと思う。われわれは同和関係の人とは違って、別の困難さを抱えている。それは健常者にとって、消えない恐怖をかきたてる。距離が必要だし、監視とサポートはいつまでも、半永久的に必要だ。それは私自身が求めていることでもある。 今まで以上に気を使っていこう。ある程度以上気を使えば、何とか生きていけそうな気がしてきた。見る人は見ている。私が社会生活を送ることをサポートしてくれる人は、会社の内外を問わず、いっぱいいると思う。希望を捨てずに頑張って生きたい。 私が通常とは違うことを感じて、接触を避ける人は多い。私自身、私を知らない人に接触してほしくないとさえ思う。でも希望は捨てていない。気を使うことによって、適度な距離を保ったまま、快適に働くことができるようになると信じている。気を使って使って使いまくろう。人の十倍くらい使ってちょうどいいくらいだ。 適度な距離を保つには、適切な言葉が必要になってくる。それが命綱だと思っている。だから挨拶から初めて、愛語を心がけよう。気を使って使いぬいた言葉を使うことが信頼を勝ち取る方法じゃないか。 耳鳴りがひどい。病院に行ってきた。何かぴんとはずれだ。説教されてしまった。よくなっているんだろうか。不安になってくる。阪急に行ってきた。すごい人出だった。ワインを買ってきた。良かった。
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