きなこ日記
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2013年06月09日(日) ひさびさ。でも今日だから、ほら。

「ただいま」
 暗い玄関にぽつりとつぶやき、靴を脱いでリビングへ。手探りで壁面のスイッチに触れ、ライトを付けると、無人の部屋が出迎える。無意識にネクタイを緩めながら、こぼれるのはため息だ。
 ふうーっと大きく息をついた後で、はっとして、今度は大きく息を吸う。
(ため息は幸せが逃げるから。うっかりため息をついちゃったら、すぐに吸うんだよ。深呼吸したのと同じになるよ)
 誰から聞かされたのか、そんなことを真剣な顔で教えてくれた愛娘・綺咲(きさき)の声が耳の奥に蘇り、ふっと口元がゆるむのを自分でも感じた。
 伊達征士。今日で40歳。23歳の時に授かった一人娘はもう17歳。征士の娘だけあって、幼い頃に始めた剣道に才能を発揮し、剣道の強豪校に進んだために、親元を離れて下宿中だ。母によく似た美しい黒髪と小作りな顔立ち、父譲りの紫の瞳で、剣道雑誌などからも取材が引きも切らないらしい。
「もう、顔で騒がれるのはたくさん!」
 断り切れずに掲載された雑誌を見た感想を言おうとかけた電話で、そんなことを言っていた。征士自身も、先祖返りの髪や瞳の色で取りざたされたことはあったが、
「剣で見返しなさい」
 母の一言で、納得した覚えがある。剣道をやるなら、すべてを剣に込めるしかないのだ。
 不意に胸元の携帯が震え、誰かからの着信を伝える。
「もしもし」
「お父さん? お帰りなさい」
「ん? ああ。ただいま」
「あのね」
 言ったきり、電話が切れる。かけ直そうかと思ったとたん、
「お誕生日おめでとう!」
 リビングと和室の境のふすまが開き、綺咲が顔をのぞかせた。
「おかえり〜、おめでと〜」
 その向こうから、もう一人顔を出した男がいる。なぜか目をこすりながら、少しあくび混じりのセリフ。
「驚いた?」
 娘がいることにも、当麻がいることにも驚いて、言葉が出ない。春休みに顔を見たきりの娘はまた少し大人びて、しばらく研究室にこもると言っていた男はやっぱり眠そうだ。
「お父さんの誕生日、やっぱりちゃんとお祝いしたくて。当麻くんにも無理言っちゃった」
 父と同い年の男をくん付けするのは、綺咲のおばに当たる征士の姉や妹の影響だ。
「日曜だから、休日出勤にしてももう少し早く帰ってくるかと思ったのに」
 綺咲が言いながらキッチンに行き、冷蔵庫を開けている。いつの間に支度をしたのか、おかずののった皿やボウルなどを取り出している。
「当麻くん、テーブルに並べて」
「はいはい。まったく待ちくたびれて眠っちゃったぜ」
 二人が手早く動いてテーブルの準備をする間、征士は彼には珍しくちょっとぼんやりと突っ立ったままだった。娘と別れての一人暮らしも3年目。賑やかな気配に、少し戸惑っている。
「お父さんも席について。食べよう、ほら」
 和食好みの父に併せて、煮物におひたし、刺身など、華やかさの若干欠けた中に、5号サイズの苺のホールケーキがある。細くて長めのろうそくが4本。1本10歳と言うことだろうか。
 グラスにビールをついでくれようとする横顔が、母の迦遊羅を思わせて、はっと胸を突かれる。綺咲の成長を見ることが出来なかった母。今はもう鎧の力を持ってしても行き来の出来ない世界で、彼女はどうしているのだろう。
 綺咲を無事に育てることが、彼女の思いを大切につなぐことと考えて今日まで来たけれど。自分はそれに十分に応えられているだろうか。
「では、改めて。おめでとう、お父さん」
「ありがとう」
 グラスをぶつけ合わせながら、
(ありがとう)
 その言葉を、迦遊羅に届くように、胸の中でつぶやいた。


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