竜也語り

2005年04月09日(土) 桜よ、桜…

まだ北国ではその蕾も固いであろうが、多くの地域ではあちらこちらで桜の花が見頃を迎えている。春は色とりどりの様々な花達が咲き乱れるが、満開を迎えた淡いピンクの桜の木の前ではそれらはどうしてもかすんでしまう。日本人の桜への想いは、性別や世代を超え共有できる数少ないものの1つであるのではないだろうか。私は根が酒好きであるので、大勢で賑やかに桜を楽しむことももちろん好きなのだが、しかし独りで桜の花を見ることも実は好きだったりする。

桜の花はなぜあんなにも愛されるのか…。一斉に花を咲かすその豪華な見栄えの美しさもあると思う。そしてその花の寿命の短さも愛される理由なのではないか。せいぜい桜を楽しめるのは1週間と言ったところだろう。いくら美しいものでも一年中その姿を拝めるのではその価値は半減してしまう。一年の1週間だけ…いやもっと厳密に言えば2〜3日だけ、私達はその美しさに酔うことを許される。
桜の花を見ていると、美しさを享受する喜びを感じると同時に、私はその姿に一抹の哀しさを感じる。桜の花の命の短さを“潔い”と表現することがあるが、その潔さがかえって満開の姿でさえ哀しいものにしてしまうのだ。去年「新選組!」で満開の桜の木の下で総司とひでとの別れのシーンがあった。短い命と知ってそれでも懸命に花を咲かせている桜の姿が、薄命の総司の決意と重なって…私は哀しかった。他にも様々な姿と桜の花は重なる。一生のうちのほんの何年間の間だけ与えられる美しさを満喫している若い女性。歌の文句ではないが、一瞬のうちに散っていった若い特攻隊員の若者達。そして自分の役割を黙々と勤め上げ職場を去って行く壮年の姿…。
日本人は“サムライ”の遺伝子を持って生まれてくるので、何事においても女々しく生き延びようとすることやしがみつくことを嫌うところがある。それこそ潔くぱっと散る姿に好感を持つ。「沈黙は金」 こんな言葉があるくらいなので、日本人は言い訳や多くを語ることを美しいとしない。しかし沈黙を守り潔く散る裏で、数々の無念さや心残りが存在していることも知っている。これは私達の“サムライ”の遺伝子が感じ取るのだと思う。だから潔ければ潔いほどそれは哀しいものになってしまうのだ。どんなに桜の木の下での宴で醜態を晒している人間でも、この桜の潔さの哀しさは知っているはずだ…と思う(笑)。

何も寿命のことを言っているのではない。人間何でも自分に与えられた役目を終える時が来る。私も今の自分の役目が終わる時が来るであろう。その時の引き際はやはり桜の花のように潔く散る方がいい。でも桜は来年も花を咲かせる。だから人間も散りっぱなしになって老いることもない。1つの役目が終わりを迎えても、きっとまたどこかで自分を必要としている人や場所があるはずなのだ。桜の木が冬の極寒を耐え忍びまた花を咲かせるように、人間も辛抱し、また花を咲かせることが出来るものを捜せばいい。
何度も何度もこれを繰り返して…。咲かせて見せようぞ、姥桜!


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