優雅だった外国銀行

tonton

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51  幻と化した愛社精神
2005年08月30日(火)

そんな10月15日の夕方、それは謙治が決して忘れる事の出来ない日になった。 「ちょっといいですか?」と、直属の上司に応接室に呼ばれた。 上司に応接室は呼ばれる事など普通はない。 とても良い事と、非常に悪い事でしかない。

「組合から聞きましたか?」謙治は、きょとんとして、「何の事でしょう?」形だけの労働組合がある。10年以上前に東京支店の経営者側が横暴な時期があった。 その時、急遽出来た労働組合は、その後の長い間の健全な労使関係の故に、ほとんどその存在価値を無くしていた。 年1回の総会での最大の議題は、組合の存続を問う事なのであった。

「新しい労働協約が出来まして、組合に提示してあります。 ご存じないのですね?」上司の説明によると、20年前の労働協約は、実際にそぐわない事が多い為改定した。 退職金も短期の人には少なく、長期の人には少し良くなったが、定年年齢は55才である。  従って、「年が明けの1月に55才になる謙治は、1月末で退職せよ」と言うのであった。

信頼していたもの、信じていたもの総てが、大音響と共に崩れだした。 古い就業規則でも、定年年齢は55才となっている。 しかし、それは無効であると思っていた。 自行内の住宅ローンを例にすれば、貸付制度が発足した15年前には、55才迄しか貸さなかったが、すぐにそれは60才迄にと改定された。 労働協約は直してなかったが、長い間、誰しもが定年は60才だと信じていた。 現に55才で退職した人は、20年間で2人しか居ず、1人は自己退職であり、もう1人は短期の契約社員で、健康に問題が有ったため契約更新がならなかったのであったが、これが労働組合発足の契機の一因になったのであった。

いくら呑気な謙治でも、漠然とでは有ったが人生の計画らしいものがあった。 3人の息子を持つ彼は、これまでは蓄えらしい事は出来なかったが、同時期に大学生であった2人は既に社会に出ている。 あと1人がこれから大学であるが、何とか老後の蓄えも始められるのではと思っていた矢先である。

謙治は、東京支店の発足当初から勤務しているたった2人の内の1人である。支店になる前の駐在員事務所にも最初からいた。 この銀行を心から愛し、この銀行に働く事に誇りを持っていた。 だから、勤務時間が人よりずっと長くても、次から次ぎへと業務量が増えて来ても、決して苦情を言わずにこなして来た。 誰からも信頼されている、皆は自分を必用としているという自負があったからこそ、どんなに遅く床に就いても、5時10分の目覚し用ラジオのスイッチが入る前の、あの音と言えない様な音で飛び起き、トイレをしながら新聞を読み、総べての準備を完全にして6時前のがらがらの電車に下総中山駅で乗り、7時にはもう猛然と働く事が出来ていたのでなかったのか。 謙治は、例え60才になっても、銀行は彼が辞めると困ると思っていた位だ。 単なる自惚れだったのだろうか。

「組合は、新労働協約を未だ承認して無いのでしょう?」と言う事は出来た。だが、足元からがらがらと音を立てて崩れてゆく信念の上で、謙治は、自身を支えるのがやっとであった。 謙治は自分の為にではなく、愛する銀行の為に働いていたのだ。 銀行が彼を必要としているから、苦しかったが続ける事が出来たのだ。 「もう、駄目だ」と思った。 銀行は、彼を必要としないと言うのだ。 本当なのか。 そんなことがある筈が無い。

「どうしますか?」上司の声が遠くで聞こえた。 何をどうせよというのだろう。 「お願いします、未だ辞めさせないで下さい」とでも言えば良いのだろうか。 でも、もう駄目なのだ。 銀行は彼を必要としてないと言うのだ。 生活はどうする。 謙治には、これから大学へ入る三男坊が居るではないか。リストラで中高年失業者がうようよ居る。 再就職が難しいのは、目に見えている。 だが、慈悲を乞うのは謙治の流儀ではない。 「分かりました」立ち上がった謙治の背に、「明日は我が身ですよ」と上司の声。 本当だろうか、人件費の高い謙治を除く事で、上司の点数が上がるのではないだろうか。 謙治がゴネたら、上司は困るのではないだろうか。 例え本当であっても、彼は謙治より2才若い。 2年前に定年を知るのと、3ヶ月前に知るのとでは大きな違いではないか。 何故、もっと早く言ってくれなかったのだろう。 忍び寄る定年の足音を聞いてさえいれば、例え、それがもっと若年であっても、心の準備は出来ていた筈だ。 業務引き継ぎの為にも、謙治の場合短過ぎた。

この銀行は、謙治の銀行ではなかったのか。 創設したのは、ラボルド氏とジュリアン氏、それに謙治の3人ではなかったのか。 たった1年前に赴任して来た奴に、謙治を辞めさせる権限があるのだろうか。 謙治が、パリ国立銀行の為に如何に自分を犠牲にして働いて来たか、彼等は知っているのだろうか。総てが真っ暗になってしまった。

駐在員事務所時代、若かったジュリアン氏は副代表として謙治と仲良くやっていた。 その後、副支店長として来日し、三度目は支店長になって来た。 そのジュリアン氏は、シンガポール支店長を最後に、一旦は定年退職し、現在はマドリードでパリ国立銀行の関連銀行のボスとして元気にやっている。 謙治は、ジュリアン氏に、助けを求めようかと考えた。 しかし、その考えはすぐ退けた。 今まで謙治は、一身上の事で誰かを煩わせたことは一度もなかった。 騒いだ所で何になる。 潔く、気持ち良く去った方が、踏ん切りがつき、明日への希望も生まれようと言うものだ。

不況という冷たい風が巷に吹き荒れて久しい。 多くの中高年労働者が、いわゆるリストラの名の元に犠牲になっている。 謙治の関係した企業でも、外資系コンピューター関連企業に希望退職を募る会社が多いように思えるが、退職者は、かなり優遇されているのが普通だ。 謙治が羨むような退職金が支給されているのもある。 経営難に陥っていたスーパーマーケットですら、謙治が受け取る退職金の倍もが、希望退職者に支払われることが新聞に出ていた。企業にとって従業員は家族では無かったのか。 その家族を、本家の存続の為に切り離さなければならないとすれば、その切り離す家族の為に、精一杯の事をするのが人情ではあるまいか。

パリ国立銀行東京支店は、営業不振では無かったし、業務量が少なくなっている訳でもなかった。 どのセクションも忙しく、「残業を控える様に」とのお達しが出されていたが、残業をしないで片付く業務量では無かった。 特に、謙治の場合は、移転による諸々が無くても、朝7時から夕方7時か8時迄は、フルに働かなければならなかった。 高度な専門知識と、判断力が要求される、尚且つ、肉体労働が必用な彼の業務に、代わりが簡単に見つかる訳が無い。 だから、定年ですから辞めてくださいと言われることを謙治は想像もしていなかった。

謙治は、学校出ではない。 だが、仕事にたいする情熱から、常に、研究、探求を怠らなかった。 とかく、パソコン等を毛嫌いする中年以上の中にあって、パソコンに関する諸々、機種の選定、ソフトの問題、教育、トラブル、それらの一切を、EDPセクションが充実され始めるまで、片手間であったが、謙治が面倒を見ていた。 それ意外にも機械と言えば、全て謙治であった。 他の誰よりも先に精通し、皆に指導するのが謙治であった。 長い間、その様な謙治の仕事振りは高く評価されていた。 だから、大学を出てなくても、それに相応しい報酬を得ていた。 新しいマネージメントは、そんな謙治を評価してないのであった。 この給料なら、若いのを2・3人雇えるではないかと。

25年前、「学歴なんか気にするな、大事なのは実力だ」とラボルド氏に言われた。 だが、実力を誰が正しく評価出来よう。 小人数の内は良かったかもしれない。 しかし、短期間で入れ代わるマネージャーたちに人を正しく評価せよと言うのは、所詮無理なのである。 上司による人事評価表を、毎年本人に見せることになっている。 謙治の1993年の評価は、「上司に反抗的である」となっていた。 あの移転準備が始まってからの数ヵ月、謙治は、どれだけ、無責任な上司達と意見を戦わせて来たことか。 毎日が戦争であった。 だからこそ、辛うじて移転が出来たのではなかったのか。 謙治は、これだけは断言出来た。 謙治がいなかったら、移転はメチャメチャになり、移転後暫くは、営業に重大な支障を来していたのだ。

年功序列の崩壊が言われ出して久しい。 これは、若い人達には、心地良い響きをもった言葉であろう。 確かに、年令が高いだけの上司を持ち、歯がゆい思いをしている若者は多いことと思う。 超一流大学で好成績を修めた若者は優秀なのかもしれない。 しかし、「亀の甲より年の功」とも言う。 一般的な高齢者は、勤勉な若者が短期間で習得したものより、はるかに多くを身に着けているのが普通である。

パリ国立銀行東京支店には、過去1年ほどの間に、中間管理職が異常に増やされた。 それぞれが若く、アメリカの大学を出て10年程を多くの企業を渡り歩いた人が多い。 新支店長ソテール氏は、その様な経歴の持ち主が好きなのである。 彼らは、しかし、部下を引き付ける魅力に乏しい。 だが高年令中間管理職が順次追いやられることは明白である。

パリ国立銀行は従業員を大切にする。 長い間、その様に信じ込まされて来た。 永年勤続者は大切にされるとも聞いていた。 だから謙治は、パリ国立銀行を非常に日本的な企業であると思っていた。 方向転換なのであろうか。それとも、時々のトップの考え方次第で全ては決まるのであろうか。 それとも謙治がトップに嫌われただけの事なのであろうか。

日本の企業も変わり始めている。 年功序列が無くなるだけではなく、生涯雇用の保証も過去のものになりつつある。 長い間、日本は人手不足であったから、企業にとって社員は財産であり、時には宝であった。 しかし、それらは、バブルの崩壊と共に崩壊してしまった。 リストラの名の元に人員整理が正当化されるようになった。 日本的企業、日本的雇用とは一体何であったのだろう。

謙治は、定年で職場を離れるのは、さぞ寂しいものであろうと長い間思っていた。 謙治にとって、職場イコール人生であった。 寝る時間以外は職場にいた。 寝ていても仕事のことを考えていた。 それらの総てが無くなることは、心に大きな穴が開く様なものだと思っていた。 だが、マネージャー達への嫌悪が、旺盛であり過ぎた仕事への情熱を、責任感を、そして、パリ国立銀行への愛着を急速に冷やし始めた。 陰で謙治の退職劇の糸を引いている支店長ソテール氏は、通路やエレベーター内で謙治に遭遇する事を極度に恐れていたが、遭遇してしまうと、必用以上のご愛想で小心者を露呈させた。




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