優雅だった外国銀行

tonton

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46 居なくなってしまった上品な銀行家
2005年08月10日(水)

ドゥボセ氏の住んでいた神楽坂の家に入居したソテール氏は、家の大改造を始めた。 バルコニーを作り、部屋に仕切りを付け、壁は全部棚にしてしまった。 料理好きの奥さんの為に、(ここで、一つ説明をしなくてはならない。 世界一グルメの国フランスから来たどの奥さん達も、料理らしい事はしていない。 フランス人だからと婦人雑誌の取材を受ける事が良くある。 その時だけは、フランス人の名誉の為にがんばるのだが、普段の料理は極めて簡単なものだ。 しかし、ソテール夫人は本格的な料理を毎日作るだけではなく、部屋も見事に片付いている。 彼女はオランダ人である。) キッチンの総べてのものを替えた。 借家であるから、いちいち大家の許可がいる。 許可だけではなく費用をどちらが負担するかということで揉める。 ソテール氏の要求は全部一度に出るのではない。 一つが終わると次。 次が片付くとその次。 大家が怒りだすのも無理もない。 従って、パリ国立銀行からも予算に無かった多額の支出を強いられた。 小さな庭には、盆栽棚が作られ、数十鉢が並べられ、石燈籠や道祖神までが賑わいに加わった。 美的感覚は無に等しいソテール氏は、何処ででも見て欲しいものを買ってきて置いただけの、足の踏み場のない雑貨屋の店頭みたいなものになった。

ソテール氏は、銀行の経費を自分の為に使う時は大名になったが、自分以外の為の支出に関しては、極端に切り詰め屋であることが次第に分かって来るのである。

ソテール氏が東京に赴任して間もなく、恒例の大阪支店と合同の社員旅行があった。 年々遠くへ行く様になり、函館であったり、長崎であったりしていたが、次回は開設20周年記念である事から派手にやることにして、この年は伊豆半島で我慢した。 宴会の挨拶で、ソテール氏は「来年は20周年記念であるから、3連休を利用してグアムかハワイへ行こうではないか」と気勢を上げた。だから、1993年10月9日土曜日、10日日曜日、そして11日の振替休日の3連休をそのために当て早くから準備に入っていた。 行員全員を巻き込んで、希望地のアンケートを取ったり催し物を考えたりした。 ハワイはさすがに予算的に無理であったので、沖縄とソウルの二手になり、準備は順調に進んでいた。 参加人員もきまり、航空券の手配も済んだ。 ところが、準備を進めている内に予算を切り詰めろ、もっと詰めろということになり、結局旅行そのものが取消しになってしまった。 不思議な事に、誰一人として苦情を言う者が出なかった。 銀行全体を覆い始めている重苦しい空気が、苦情を許すような状態ではなくなっていた。

総務・人事担当のフランス人ローラン氏が定年になる。 後任にアムステルダム支店に勤務していた40才になったばかりのフランス人、オースタン氏がやってきた。 荷物が多いと聞いていたので、ワゴン車を借りて謙治が成田へ迎えにいった。 奥さんと17才の息子さん1人であるが、驚いた事に2人とも英語を理解しないようであった。 息子さんとは、その後会う機会も無かったので、どのくらい英語を理解しないのか分からなかったが、奥さんは全く理解しない事がひょんな事から分かった。 オースタン氏が事務所から奥さんに何度電話しても話中の事があった。 「家内がそんなに長く電話をしている訳がない。 受話器が外れているのだろうから、管理人に見て来るように頼んでくれ。」と言われ、謙治は市ヶ谷にある彼のアパートの管理人に電話した。 管理人はすぐに館内電話で奥さんに連絡してくれた。 しかるべき職場を定年退職しての管理人の、聞こえて来る英語は完璧であった。 「あなたのご主人が、事務所から電話しているのだが架からないそうです。 受話器がちゃんとしているか調べていただけますか?」相手の声は聞こえない。 もう1人の管理人の声が聞こえた。「あの奥さん英語が分かんないんだよ、俺行って見て来る。」

フランス人は、他のヨーロッパ人と比べると、英語を喋らない人が多いというのは、事実はともかくとして良く言われることである。 謙治は、駐在員事務所の時から25年この銀行で働いている。 最初のボスの奥さんは、英語が下手であったが、通じない事はなかった。 朗らかなルレー夫人は英語を話すのを嫌って、謙治にもフランス語を強要し、へたくそな謙治のフランス語を良く我慢してくれ、「お前は、フランスへ行っても大丈夫だ」と、お世辞を言ったりしていたが英語はちゃんと喋れた。 他の人達、数え上げれば恐らく百人近くになる外国人たち全部が英語を話し、英字新聞を読んでいた。 英語を話さないから程度が低いとは言わない、しかし、何故か違いを感じてしまうのは偏見だろうか。

外国人登録の為に新宿区役所で待たされている時、オースタン氏は自動車を買う話しになった。 今まで来たフランス人の殆どがそうであった様に、謙治はオースタン氏も中古自動車を買うものと思っていたが、トヨぺット・クラウンの新車を買いたいと聞いた時には耳を疑った。 「三百万以上しますよ」「分かっている」。 25年間に新車を買ったのはたった一度だけ、若いシュワールがホンダ・アコードを買っていた。

1992年の末は、自動車セールスマン達が、初めて経験した終わりの見えない不景気でうんざりしていた。 値引き合戦の真っ最中であり、謙治は大きな値引きを勝ち取っていたが、オースタン氏はオプションだけでも40万円以上も付け加えた。 車が売れない時期であったにも拘らず、納車迄には6週間程待たなければならなかった。 自動車を注文した時には普通なにがしかの内金を入れるのが普通であるが、謙治を信用したセールスマンは、それを省いてしまっていた。 手続きは順調に行われた。 オースタン氏はサイン証明をさっさと取りに行き、車庫証明も済んだ。 来週納車されるという時になって、突然、注文をキャンセルするとオースタン氏が言い出した。 何を言っても聞き入れなかった。 金も一文たりとも払う意志は無いと言う。 オースタン氏にとって注文書へのサインなど、何の意味もなかった。 気が変わったのだそうだ。これは、オースタン氏と謙治との間で連続して起こるトラブルの皮切りであった。




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