優雅だった外国銀行

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32 三度目の東京勤務はピストル持参
2005年06月25日(土)

ジュリアン氏が三度目の東京勤務になった。 こんどは支店長である。 老眼鏡をかけ一回り太くなったジュリアン氏は、それでも元気一杯張り切っていた。 夫人も老眼鏡のお世話になっていて、謙治に向かって「お前はまだ大丈夫なのか?」「眼鏡は未だですけど、読む時は大分遠くしなければならなくなりました」「あっはっは! すぐ手の長さが足りなくなるよ、そうしたらお前も老眼鏡を掛けるようになる。」 5年と数ヶ月振りである。 謙治は戻って来てくれて大変嬉しいと本心で言った。

ルレー支店長も定年である。 一見すると、呑気者と思える位おっとりしていて、頭取が一緒の時など、びくびくしていた前支店長シャピュー氏と違い、平気で鼻歌を歌ったりしていたが、てきぱきと良く働く人であった。

ルレー氏の離日を待ちかねたように、「きょうからは俺の支店だ」と言ってジュリアン氏は、ばりばり働き始めた。 しかし、以前からそうであったが、決して能率的ではなかった。 会話好きなのか、決断力が足りないのか、自分の机の前に、常に2・3人座らせ、それでも足りずにちょっとした事でも四方八方に長電話をし、資料を取り寄せ長時間かけて決断した。 そして、決まって夕方になると、テレックスや手紙の準備をしだし秘書たちを困らせた。 ジュリアン氏は又、書類を無くす名人でもあった。 整理をする事を知らない彼の大きな机は、常にうずたかい書類の山で、必要な物は全部そこに有ったが、見付けるのは一苦労であった。 瞬時に結論を出し、きちんと整理してあるスールミヤック氏とは余りにも違い過ぎた。

横浜税関の係官が3人、ジュリアン氏に会いたいと言って突然訪ねて来た。ジュリアン氏は勿論、何時ものように自分の前に何人も座らせて、電話と会議と称するもので忙しかった。 「税関なら謙治が相手すればいい」。

税関の係官たちは、謙治に要件を言わず、ただ、ジュリアン氏がどのような人なのかを聴くに止め、要件は直接本人に伝える、何時まででも待つと言った。
係官達をジュリアン氏の部屋に案内した謙治の同席を係官達は拒否したので、部屋のドアーを閉めたが、暫くすると取って付けた様なジュリアン氏の大笑いが聞こえてきた。

パナマに居た時は、ピストルをアタッシュケースに入れて常に持っていた。そのアッタシュケースが、引っ越し荷物に紛れて入ってしまった。 ジュリアン氏は、その様にあとで謙治に説明した。 税関への釈明もそうであったのだろう。 謙治はそれを大変疑わしい釈明であったと今でも思っている。 膨大な引っ越し荷物の中のピストル1丁が、見つかる訳が無いと高を括っていたのだろう。 ともかく、本来なら直ちに連行される所を、翌日、横浜税関へ出頭する事で許してもらった。

横浜税関へ出頭するのは初めてではなかった。1970年頃であったが、香港の某社の貨物船が横浜に停泊していた時、当時の駐在員事務所代表のラボルド氏とジュリアン氏が船上の昼食に招待された。 中国人は接待上手である。 通常言われている事だが、外航船は免税品の山である。 贅沢な物、当時は非常に高価であった酒類もふんだんにあった。 4時間もかかった昼食ですっかりご満悦の2人に、ボトルの土産までくれた。

桟橋を出た所で税関史に車を止められた。 ラボルド氏は急いでボトルを座席の下に押し込んで、申告する物は無いかとの税関史の質問に呆けようとしたが、ボトルを発見されてしまった。 そうなると、もう「税金を払います」では済まされない。 あとを追って来た船主たちの機転で、ジュリアン氏が罪を被る事になり、税関に連行されて行ったのであった。

もし、税関でジュリアン氏の過去を調べでもしたら、面倒な事になったのだろうが、ピストルはパナマへ送り返す事として落着した。




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