暴かれた真光日本語版
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2004年01月30日(金) |
057 publicationsinJapan |
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「新興宗教の正体」 早川和廣著 あっぷる出版社 (絶版)
真光立教前の裏話が載っているという。
<抜粋> 「岡田良一氏は戦時中に山梨県大月市に疎開したが、そこで井上甲子さん(S4.12.16生)と出会った。世話になったのが彼女の実家の2階である。彼女は当時大月市民病院の看護婦をしていた。良一氏はそこで世界救世教を知り、戦後に救世教を頼って上京した。」 他にも同書には、教団分裂時のことが公平な観点が描かれているという。10年近くにわたる裁判と中傷合戦に嫌気が差して去っていった信者も多いとあるらしい。
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「新興宗教教祖のウラの裏がわかる本」 早川和廣 ぴいぷる社 1988.11.25 P165
<以下抜粋>
晩年の岡田光玉は宗教者には似つかわしくない贅沢に溺れ、金銀財宝を身につけていたという批判の声もある。だからこそ、せっかくの真光の業がありながら、天寿をまっとうすることなく、73歳で病没してしまったというのである。
初代教え主亡き後、分裂した両派にゴタゴタ騒ぎが絶えないことは、結局のところ、教団幹部連中に教団を率いる資格などないという事実を物語るものといって差し支えあるまい。
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防衛庁防衛研究所内、戦史資料閲覧室 昭和三十六年十月、第三十四期生会々員名簿
岡田光玉氏には妻と実の娘がいると言われていたが、以下の資料から、それが確からしいことがわかる。
岡田光玉氏の家族については、○○真光信者は一切知らされていない。ただし、長女は昭和62年(1987年)に発足した陽光子友乃会で研修を受け、平成3年(1991年)前後の陽光子友乃会のみ祭りに来賓として招かれ、信者に紹介されたと言われている。岡田光玉氏によく似ていたという。
また、この昭和36年(1961年)の資料では、「妻亡」とあり、妻の死亡を意味すると思われる。しかし、「3.崩壊しつつある真光の基礎」によると、光玉氏は昭和28年(1953年)から昭和32年(1957年)ぐらいまでの時期に妻と離婚したと言われており、離婚したことを隠すために「妻亡」としたのか、あるいは妻は本当に死亡していたのか、定かではない。
防衛庁防衛研究所内、戦史資料閲覧室 昭和三十六年十月、第三十四期生会々員名簿 P.12 氏名 岡田竜道(良一)、 初隊号 2−2Gi (近衛士官) 勤務先 L・H陽光子友の会々長、多田建設KK顧問 家族 妻亡、二女(長嫁 次女幸子)
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「無私の愛よ永遠に」平成二年刊 −たま出版、瓜谷社長の証言−
たま出版に瓜谷社長は初期の真光組み手であり、光玉のとの経緯を「無私の愛よ永遠に」平成二年刊に於いて書き残している。
(瓜谷氏の超宗教・超宗派への道の提言に対して) 以下引用
〔前略〕
顕著な真光の業の実績などにより信者が増えるに従い、やはり通常の宗教セクトと同じような団体を形成し、数ある新興宗教団の一つとしてひたすら信者数を増やすという量的拡大の道を歩み始めた。
間もなくS界真光文明教団という麗々しい名称の下に宗教法人の認可が降りた。 そしてしばらくは世田谷区にある自宅兼事務所で布教活動を行なったが、本部になる殿堂の建立の計画がされ、東横線沿線の格好な土地が求められ、その建設が始まった。 その着工に先立つ地鎮祭の時、私も妻もその式に列席した。 式の途中、何故か物凄い突風吹き、周囲に張られた式幕が風で吹き飛ばされそうになった。 妻はこの余りにも強烈で、突然の風が、何かの予兆だと言い、本教団の前途が波乱に満ちたものであることを示すものと私に語った。
そしてこの予言は的中した。 本殿ができたのが昭和四十三年三月、その後教団自体は大いに伸びたが、初代教主O師(光玉の事)はその六年後、昭和四十九年六月、この本殿で、突然の急死をしてしまった。 その直後から後継者をめぐって二人の人物がそれぞれの正当性を主張し譲らず、遂に裁判まで持ち込まれ、その決着に五、六年を要した。 その結果一方が名称を変え、同じ教義の下に、同じ初代教主をいただいて、宗派活動をするようになり今日に至っている。 間もなく正式名称継承した方の教団から、第三代を名乗る人物が現われ、別派をつくり三つの教派に分裂してしまっている。
思うにこれはあらゆる宗教セクトが陥る宿命的な運命である。 宗教の時代はとっくに終わっているのに、現世的な名誉や財産に捉われ、神の経綸を説きながら、自らはそれを実践できないでいるこの悲喜劇が多く繰り返されている。 ああ何と悲しむべき現象であろうか。
この立派に殿堂が建つ前後よく妻と語りあったものである。
「これからの人を教化する宗教あるいは精神運動の場はすべからく幕舎でなければならぬ」そのように神(妻の)から授かったと彼女は何度も私に語ったことがあるが、私もその通りだと思った。 こういう点では不思議なことに、二人は必ず意見が一致し、何の葛藤もなくお互いの心中を語りあうことができた。
この本殿の建立が始まった頃、本来なら幕舎であるべき所なのにという思いと、万時に宗教セクトをますます強化し信者の拡大に走るその姿と、主神の代行者よろしく自らを特別神聖化して行くO師(光玉氏の事)の行方に、これではついていけないとの思いがつのった。 そしてある日二人で世田谷の本部に伺いO師(光玉氏の事)に面会した。 その時二人は信仰を離れることを決意はしていたが、いきなりそこまで言うのは、多年導きいただいた教主たる師に礼を失すると思い、その時は取りあえず、道場長、その他幹部的な役をいただいていることを辞したい旨お願いした。
師は顔色を変え、いつもの温顔がきびしくなった。 師は静かに信仰をやめかねない二人の態度に、もしこの信仰を去れば、それなりの罰や祟りがないとは言えない。 またこれから何かにつけ神の庇護を受けられなくなると、翻意を促すように告げた。 厳しい一瞬であった。 入信間もなく訪れた二階にある神殿のあるご本部の日本間である。 師の言葉は、決意の決まったわれわれ二人には空しかった。 しかし温情ある師から受けた現世的恩義は忘れることはできない。 それは感謝せねばならないし、その気持ちは十分あった。
そして師は、その豊かな霊感を見抜いて、妻に、もし将来あなたが、霊的な指導者として独立するなら援助は惜しまない。 だからもうしばらくここで修行を続けなさいとも語った。 しかしそれは妻が最もなりたくないことで、心中はとんでもないことと思ったが、その場ではその過分なお言葉に、最大級の謙遜な気持ちをこめて、師にその好意を感謝しつつも、はっきりご辞退申し上げた。 このような妻には人一倍強い霊感、霊能を持っていながら、これで信者を集めたり、これを仕事にするようなことは全然念願になかった。 やはり本質はあくまで精神世界的な、一求道者であった。 その意味では二人は文字通り、同じ道を歩む互いにかけがえのない同志であった。
このような一幕があって、折角本部殿堂ができたというのに、二人は次第に足が遠のいていった。 どんな立派なものであろうと、いや立派で堂々たる殿堂である程、二人には何の魅力もない空しいものしか思えなかった。
〔後略〕
<注>
教団を去れば神の守護が受けられなくなる、罰や祟りがないとはいえない...と、教祖の岡田光玉氏自身が言っている。それ故、現在の真光系教団もこの体質を受け継いでいると言えよう。
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「特集、八王子に四十五万坪を買った○○真光」 週刊新潮1995、04・27号 (G氏、N氏からの情報 参照)
1995年3月30日、オウムサリン事件後、國松警視庁長官が銃撃された。そのわずか2日前、3月28日、八王子市議会において、崇教真光教団による山林買占め問題が質問され、怪しい買占めを市会議員によって追求された。この件は、週刊新潮1995、4、27日号にも掲載されている。なお、議事録は市役所で請求すれば誰でも見られる。
市議会での質問から:
...買占めの実態についてですが、この3年間での買収費用は総額130億円を超えていると推測をされています。盆暮れには3万円程度のつけ届けが土地所有者に届き、大変熱心に買っているようです...
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「日本ばちかん巡り」山口文憲/著 新潮社 出版年月 2002/02 1800円
天理・金光・救世・真如苑等の各本山を取材し、教団の表向きの広報だけでなく、裏話 ものせている。崇教に関しては、以下のとうりだ。
1) 立教者の死亡後教団が分裂したため、2代目教祖の経歴を秘密にした。 2) 本山のある高山にわざと自前の宿泊施設や給食施設をつくらず、地元業者を利用するよ うにした。
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