「死ぬ前に何か一つ好きな物が食べられるとしたら何が食べたい?」
不意を突かれた形で、しかも全く考えたことも無かった質問を浴びて 即答も出来ず、ボケもかませず、暫く考えた末、出てきた言葉が
「おにぎり」
でした。 うん、米が食べたいよやっぱり。具は何でもいいから。
因みに、その質問をした人はというと 「旦那(嫁)が作ってくれた食べ物なら何でもいい。」と答え、続いて 「もし旦那(嫁)がもういなかったら、我が子が作ってくれた食べ物。」と言った。 なるほど、私にはそんな家族愛な回答は思いもつかなかったよ。
しかし、よくよく考えてみれば 「おにぎり」と答えた私の頭の中も、確かにコンビニのキレイな三角形をしたおにぎりではなく いびつながらも、間違いなく人がにぎったであろう有機的なおにぎりを思い浮かべていた。 少なからず私の中にも、人の心みたいなものがちゃんと存在してるようでちょっと安心した。
ところで、そんな質問を浴びせられたもんだから その話が終わった後も私の頭の中では、いつかはわからないが、いずれは来るであろう 「その時」の事を暫く考えてしまった
「果たして自分がそういう状況になった時、私におにぎりをにぎってくれる人はいるのだろうか?」
…ではなく、
「仮にそういう状況になった時に自分はどんな顔をしているのだろうか?」
と。 そして、何となくではあるが、 「自分が死んでこの世にいない」先のことまで考えてしまった。 これまで「自分が死ぬまで」のことは幾度と考えたことはあったが 「死んだ先」のことまでは深く考えたことはなかったと思う。
自分ひとりであれば、自分が死ねばそこで「終わり」である。 しかし世界は私一人だけではない。 大なり小なりの繋がりがあり、無視できない繋がりを持つ人だっている。
私はその方たちに 何かしら生きた証を残せただろうか? …
そんなことを延々と考えて とても悲しく寂しい気持ちにもなったが
いろいろ考えて、あれこれ考えて やっぱり、その辺のことはその時やその後にならないと判らないことだから いざそういう状況が訪れた時に、私の顔が全てを物語ってるんじゃないかなと。
だから最期は
「ありがとう」
と笑顔で食べるおにぎりだったら最高。
パスタと答えらず、裏切るカタチとなってしまいつけたタイトル。 しかし「最期のおにぎり」というタイトルはさすがに重いと思ってね。
|