暴かれた真光日本語版
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2005年09月24日(土) 紀行記

紀行記――戸来を尋ねて 聖地キリスト村

(2004年11月10日と同じ物)

480 キリストの墓の真実(1)――お代理紀行(a) 2004/12/23 14:30

「真光」誌昭和44年12月号P18-24
紀行記――戸来を尋ねて 聖地キリスト村
東京青年隊々長 手島○六 (国学院大学四年)

 私が、昨年に続いて今年も又、青森県十和田湖近辺にある戸来(ヘライ)村を訪れた理由は、過去、教え主様より中級、上級研修会において、「イエス・キリストはゴルゴタの丘で十字架を逃れ、イスラエルを脱出して東方の果て日本に上陸し、青森県三戸郡戸来村でその一生を終えられた」という歴史上の真実を知る事が出来たからである。昨年、その目的を全て果たす事の出来なかった私は、今年も大学が夏期休暇にはいると居ても立ってもいられず、再度、東北へ旅立ったのである。
●【写真】沢口家の紋章:イエス子孫と称している沢口家の紋章,ダビデの紋に非常に似ている。中央老婦人は故沢口氏の妻女。他は筆者・手島○六君(前列右)と同行の青年隊員。

 私は、学友である金丸○弘と共に、まず北陸へ向かい、三道場各青年隊と心暖まる有意義な交流会を行なった後、勇み立って東北へと向かった。これに北陸青年隊の伊藤○す子さんが同行し、途中、長岡の車中で石渡○夜子さんと落ち合った。
 第一の目的地は、青森県五所河原市近くにある梵珠(ぼんじゆ)山である。大釈迦駅に着いて見ると、驚いた事に東京青年隊の沢柳○一君がホームに立ってニコニコと笑っているではないか。なんと東京から八百数十キロの道程を、ちっぽけな一台のオートバイで走破してきたのだ。私は、彼が青森行きを強く希望していた事は知っていた。しかし、彼が青森まで来る事は危険がともなうので反対もし、又、実際ここまで来るとは思ってもみなかった。だが彼は遠く長い道程を越えて、大釈迦の駅に今立っている。その勇気と情熱に、私は感動を覚えずにはいられなかった。そして彼のバイクが、これから登ろうとしている釈尊の御骨が祭られてある梵珠山において、大変な活躍をしてくれたのだった。
 霊山に登る頃、すでに夕刻の陽が私達の背後に迫っていた。標高四百六十八メートルという比較的低い梵珠山(教え主様が六年前登られたみ山)は登ってみると以外にも困難をきたした。途中から「神向き妙法見実相観神通力」を連唱しながら登って行った。頂上に到達した時、あたりはすでに暗闇であり、時計は七時五十五分を指していた。私達はそそくさと荷物をまとめ、カンテラを照らした。釈迦堂に人影は全くなく、むしろ御堂とはいい難いそまつな釈尊の塚があるに過ぎなかった。しかし私達の胸は高鳴り、興奮していた。周囲には遠く青森の灯と大釈迦の町々の灯が奇麗なコントラストを描いて美しい。私達がお参りの用意を始めると、ほどなく雲が一面を覆い町の灯は消え去った。私達はそれこそ心から敬虔な祈りを捧げた。最中、水滴がポッリと落ちてきた。それはあたかも釈尊の涙のように思えて仕方がなかった。お参りを終えてあたりを見渡すと雲は切れ、再び私達の目に町の灯が映ってきた。
 この山の由来記に、霊峰梵珠山は昔より旧歴七月九日には数千人の人々が参拝登山し、丑満(うしみつ)時になるとローソク大の釈迦の霊燈の出現を見た人も少なくないといわれている。(教え主様は真昼ここに登られて、大変な奇跡に会わされた由)
●【写真】戸来(ヘライ)塚:戸来村にあり、イエスの墓所と現地では言っているが、一説には弟イスキリの髪と耳が葬ってあるといわれている。
(写真上はその説明掲示板)


481 キリストの墓の真実(2)――お代理紀行(b) 2004/12/23 14:32

 翌朝、私達は第二の目的地、十和田湖畔の奥にある眉ケ岱《マユガタイ》(別称迷ケ平《まゆがだいら》エデンの花園)と呼ばれる聖なる土地に向かった。その途中奥入瀬渓流は誠に美しく、多くの巨石にも驚かされ、又、十和田湖の神秘なたたずまいに感嘆したけれども、宇樽部(うたるべ)からうっそうと生い茂る山道を車で抜けて行くと、突然視界が開け、あたりには朽ち果てた巨木が草原の中にどこまでも続き、その雄大な景観は確かにそれらを更に上回るものだった。
 明日からいよいよ本格的にイエス・キリストの遺跡について調査を開始するわけである。此の日、私達は十和利山(とわりざん:別名トガリ山といい、キリストの本塚とされている)の麓にあるエデン荘という小屋に落ち付き、バイブルを勉強して休んだ。
 眉ケ岱の朝は霧が流れ、やがて陽の光が輝き初め、エデンの花園を照らした。
 私達は教え主様より「古代エジプト文明の象徴であるピラミッド(日来神堂 《ヒラミドウ》)は日本から行ったのであり、原型は十和田湖の一角に、その他ピラミッド山は方々に現存している」と言うみ教えを戴いている。現地の人々はその一つを大石上山(おおいしがみやま)にある石上(いしがみ)と言っている。山の入口と思われる付近で村人に大石上(御石上)の場所を尋ねてみると、親切にも案内してあげようと言うではないか。私は神様の御守護に感謝せずにはおれなかった。明るい希望が体の底からふつふつと湧いてきた。大石上山を登り始めると小径はしだいに草で被われて行く。草をかき分け、かき分け、道なき道を歩き、沢を渡り、ようやくにして石上(ピラミッド)の前に立った。もし道案内をして戴けなかったなら、ここ迄はとてもたどり着く事は出来なかったに違いない。
 途中、禁断の木の実とバイブルで言われているコカの実を見つける事が出来た。
●【写真】石切様:ピラミッドの頂上に、土地の人が代々イエスを祀ってきたという石切様がある。
 ピラミッドの一つは過去幾千年の風雪に耐え、その面影を今も残していた。巨石は大石上山のそこにだけ山積していた。長さ四メートル余りの楕円形の巨石は、太陽信仰に用いられた鏡石と思われる。だがかつての地震で倒れ、今もそのままになっている。この削られた跡のはっきりしている巨石を、誰が、いつ、どうしてこの山奥へ持ち運んだのであろうか。村の人々は誰も知らない。多分、イエスが神様をお祀りする為に造られたのであろうか。それとも弟子がイエスを祀ったのだろうか。地名イシガミもイエスガミから来ているのかもしれない。村人の話によれば「いつもはこの大石の上の大木に大蛇がとぐろを巻いている」と言う。どういう訳か私達の前にその姿を現わさなかった。村人は「いつも居るはじゅなのに」と不思議がっていた。
 その後、私達はキリストの墓といわれている墓所がある戸来村沢口(さわぐち)へ行き、入口で、キリストの聖水と呼ばれる湧き水でミソギをし、なだらかな坂道を登って行くと二つのこんもりとした土まんじゅうに出逢った。私達の立っている所は小高い丘である。向かって左側の墓は「十代墓(じゆうだいぼ)」と呼ばれ、父ヨセフと母マリア、そしてイエスの身変わりとして処刑された弟イスキリの髪の毛と耳が土中に収められ、右側の「十来塚(とらいづか)」は、イエスキリストの墓と呼ばれている。だが、実際は違っていて、イエスの高弟であろうと言う説がある。
 そこから更に百メートルも登り切らない所に、比較的広い土地がある。これこそがイエスの住まわれた館跡である。今はその大部分がリンゴ園となっている。リンゴもその昔、イスラエル人が作ったとされている。


482 キリストの墓の真実(3)――お代理紀行(c) 2004/12/23 14:33

 これらを見終えた私達は、早速丘を降りてすぐそばにある沢口家を訪れた。沢口家とは今日まで代々この二つの墓を先租の主(あるじ)として守り通してきた家の事である。私は咋年、キリストの子孫という噂のある沢口三次郎氏と親しくお話しする機会に恵まれた。ご自分ではキリストの子孫と思っているらしかったけれども、事実はイエスの高弟の子孫であるらしい。今年も、あのユダヤ人のような赤ら顔とワシ鼻をした独特の風貌に接する事を楽しみにしていた。
 私は沢口家の玄関に立ち、大声で「こんにちは」「こんにちは」と声を張り上げた。応答がない。もう一度言ってみた。暫くするとおばあさんが出てきた。私は言った。
 「昨年親しくお話し頂いた者です。おじいさんはおられますか」
 おばあさんが言った。
 「おじいさんはもういねえだ」 
ぽつんと一言もらした。
 私は慄然としてしまった。
 「この春亡くなっただ」
 間をおいて私は重く口を開いた。
 「そうですか」
 おばあさんはなつかしそうに、いとおしそうに、おじいさんの面影を語ってくれた。おばあさんは私達を本当に暖かくむかえてくれ、次々に家の宝物を見せてくれたのだった。イエスが使ったと思われる神にお使えする石の食台を手にした時の胸の高鳴りを、どうする事も出来なかった。又、タビデの紋章に良く似た、非常に古ぼけた家紋が戸袋に使われていた。無論、何故この紋を沢口家がつけたか、何時からあったか、家の人は全く分かっていないそうだ。
 今日、最後の目的地へ向かう。しかし、果たしてイエスがあのキリストの墓と呼ばれる所に眠っていないとすれば、一体何処に御墓はあるのだろうか。恐らくそれは戸来岳であり、十和利山であろう。ここにイエスの本塚があると思われる。九百九十メートルの十和利山を中腹まで登れば、下界西に十和田湖全貌が朝日に映え光っている。中腹一面には枯れた巨木があった。頂上にたどり着くと霧がたちこめ、視界はきかない。私達は真剣にお参りをし、イエス様に祈った!
 イエスの死について、一説には十和利山頂で百十八歳の天寿を全うし、風葬され、その御骨を山に残した。又キリストの墓と言われる二つの土まんじゅは父母の墓として守り祀ったと言う。
 再び眉ケ岱にもどった私達は、その近くを詳しく調査した処、そこで”神秘の泉”のような池を見つけた。ここの泉は決して枯れはしない。どんなに日照りが続こうとも渇する事がないそうだ。そして、この近くに古井戸の跡とみられる深い穴も見つけた。日照(にっしょう)は地の底までとどいてはいない。底は真暗闇だった。村人の語で興味を引くのは、この地域で古井戸と泉の一角のみが大昔から私有地となっているという。つまり一角を除けば全て国有地で、美しいが実に辺鄙(へんぴ)な所である。だがここに昔、人々が住んでいた事は確かであることを誰しも感ずる事であろう。
 果たしてエデンの園と呼ばれるこの土地がアダムとイブの物語の土地であるのか、その真偽の程は良く分からないが、この地方の人々は男をアダ又はアヤ、女エパ又はアパ(み教えでは神代語)と言うのであるからちょっと驚かざるを得ない。
 私達はエデンの花園、眉ケ岱をあとにして現代離れした名称を持つドコノ森に向かった。途中、牧場近く迄きて車を降りた。そこには誘いこむようなたたずまいの一本の朽ちた巨木と木陰があったからである。魅せられるように奥には入って行くとあたりに草原が開け、正に美しき山アジサイが咲き乱れ、シダ(み教えでは南方樹の先祖)が繁茂している。私達はそのあざやかさに、オー素晴らしいと大声を上げた。このような所がエデンの花園か、そのヒナガタに違いないと思った。
 ああ有難し! この名もない草原に茂るシダ。眉ケ平の枯れ朽ちた巨木と泉。奥入源の密林と巨石、大石上山にあるコカの実。どれをとってみてもこの地方が太古の昔、教え主様が言われるように「東北は亜熱帯であり、高山地は世界の軽井沢といえよう、五色人が集まってきたのが現在の熱海のような常春の気候であった」事は、想像に難くない。


483 キリストの墓の真実(4)――お代理紀行(d) 2004/12/23 14:35

 やがて遂に私達はドコノ森を見つけた。ドコノ森を捜すのに骨が折れた。しかし捜さねばならなかったのだ。そこには一万個以上に及ぶ神代文字の刻まれている骨片が、山の土中に埋もれているからだ。もちろん山に登り、土中から神代石を発掘する事は時間もなく、無理な相談だった。けれども、三角形のドコノ森の雄姿を遂に見つけたのだった。
 さて、このようにして、私達の戸来に於ける超古代遺跡の探査は一応の成果を収め、無事今回の目標の一部はなし終えた。その目的とは、イエス・キリストの歩まれた道をくまなく尋ねみる事に他ならなかった。そして、イエスやユダヤ人(日の本の分家筋)が、この地に住みついたと思われる事実を説明するに足る裏付けは、他に述べれば枚挙にいとまがない。
 例えば、この地方独特の方言がそれである。日本語離れした村人の会語を私はほとんど理解できなかった。しかも大石上山の盆踊り等に唄うナニヤドヤラ盆唄は、ユダヤ語研究学者に言わせれば「お前の聖名をほめ讃えん」と言う意味のヘブライ語だそうで、村人はわけも分からずに唄っている。
 現在はもうやってはいないが、戦前は子供が生まれると、額に十字の赤い墨を塗り、一ヵ月間外に出さない風習も実際にあったそうだ。
 これらはほんの一例にすぎないが、時間をかけ、厳密に調査をすればするほどに、さまざまな問題を提起するに違いない。
●【写真】十和利山を望む 古文献では,イエスの遺骸はこの山上で風葬されたという。
 しかし、又一方、そういった風俗、習慣も年を追うごとに忘れさられ、太古の自然美を誇る眉ケ岱(平)も戸来村も観光地として俗化して行く事も否めない。悲しい事だが、イエスの歩んだ道を尋ねみようと思うなら今だ! この山奥にも物質文明の波は滔々として訪れ、山はダムに置き換えられようとし、村の家々には電化の花形であるカラーテレビがどこにでもある。若者たちは風俗、伝統といったものを守るどころか、知ろうともしないようである。私は一年ぶりに戸来を訪れてみて、この地域全体が物凄い速度で開けようとしている様をまの当たりに見て、大変喜ばしい事だと思う反面、世界の文明の古い源を尋ねるものも少なくなり、しだいに消えて行く一抹の寂しさ、憂いを感じない訳には行かなかった。
 私達にとって、イエスの遺跡を見、手にして触れる事が出来たが、同時に見逃してはならない一つの大きな問題がある。
 それは当時、この聖なる地でイエスが何を考え、何を想いつつ暮らしておられたかと言う疑問である。イエスは弱冠十八歳で日本に上陸し、多くの神業を体得して、母国イスラエルに帰り、神の国と義について宣布され「向こうで死んではならぬ」の勅命通り、涙をのんで弟イスキリを身変わりとして処刑を逃れ、再び青森県八戸港へ到達したと言う。その後、全国を幾度となく巡教され、言語、風俗を研究され、又残し、人々を救って歩かれたのはみ教え通り推定できるのである。そして又、イエスの呼名も十来ではお偉い御方、あるいはイシガミ様として、八戸では八太郎天空として、そう言えば八戸では八太郎某(なにがし)という店屋をよく見かけた。あるいは猿田彦神として、これなども顔が赤い所からこう呼ばれ、尊敬されたのだろう。
 久方に都会のビル雑踏から遠く離れ、山々と太古史の香(かおり)のふところに抱かれ、青き草の薫をかぎ、澄み切った空を眺め、目にしみこむような樹木や花々を見つめていると、なんだかイエス様の御意がうすぼんやりと頭に浮かび、体に伝って来るような気がしていた。それはこよなく自然を愛し、神と共に生きたやさしい、喜ばしい感謝に満ちたお姿だった。教え主様が良く言われる「神は自然なり、至善なり、天に飛ぶ鳥の如く、地に咲く花の如く、らしくあれ!」そうだ、自然を知らずして神を知る事は難し、イエス様も至善を知(智)り尽くした方に違いない。この大至善即大自然の雄大で誠に繊細な仕組みと妙なる旋律を知ることなのだ。私はそう想った。全く理屈などではなかった。
 しかし、イエス様を想う時、この自然の山や風が、一方憂慮に満ちているように思えてならない。その御顔はどことなく悲哀感があり、葉が風にゆれている様は声なき声に変わった。声なき叫びが山々にこ霊(だま)しているようだ。時として嘆きの声にさえ聞こえてくる。


484 キリストの墓の真実(5)――お代理紀行(e) 2004/12/23 14:39

 私は強く思う。幾星霜を経た今日、イエス様の眠るこの自然の中に歓(神)喜と深い悲しみとが同居しているように思えてならなかった。確かに教え主様の言われるように、イエスは日本に渡来している。現代の歴史は二千年前後の唯物史でしかない。一切は仮面(マスク)と真如に満ち溢れ、聖者聖雄はこのような偽りの歴史に包まれた「現代」を嘆き、悲しんでおられるに相違ない。
 われわれはこう言った真実を知れば知(智)る程に、その恐るべき誤ちにただ安閑としている訳には行かない。
 純粋に、純粋に神向きして行こうとするならば、われわれは雄々しく立ち上がらざるを得ないだろう。人生観を百八十度転換してしまった、尊き、吾等のこのみ教えを知った時のあの感動を、今こそ自分自身の魂に甦らせねばならない。
 主の大神様は、われわれが歴史の改修に幾許(いくばく)でも手を染める日が一日も早く来る事を、今、一番望んでおられると私は確信している。

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【感想】 著者はさぞかし文学青年だったろうと思う。流麗な文章は今と少しも変わらない。古史古伝への妄信ぶりも、全く変わっていないね。


(日記作者 文末一行削除 住所のため)
(20081226 伏せ字一字追加および誤字修正)




日記作者