暴かれた真光日本語版
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2005年08月24日(水) 航空機事故に関する教示(昭和41年み教え集より)

航空機事故に関する教示(昭和41年み教え集より)


日航123便墜落事故と真光
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3760/1100318036/

52 名前:名無しさん 投稿日: 2004/11/17(水) 23:15
昭和四十一年三月度月始祭教示(昭和41年み教え集より)
 (航空機事故について)お亡くなりになったかたにはお気の毒であるが、死をもって、罪穢のアガナヒをしなければならないような人々が、その飛行機に集められてしまう「相応の理」で仕組まれてしまうのです。


53 名前:昭和四十一年三月度月始祭教示『富士山と飛行機事故』 投稿日: 2004/11/27(土) 16:35
■暮れの世は明ける
 さて、話は変わりますが、3月5日、はからずも富士山の聖場で飛行機が墜落しました。この事故にあわれた外国の遭難者がたには、ほんとうにお気の毒であったと思わざるを得ません。
 ベテラン飛行士の操縦している、世界で最高性能を誇る飛行機が、原因不明の故障で富士の霊場上空で落ちたのです。そこで「富士の霊場と大事故」というテーマで所感をのべるのも皆さんの神向き上のご参考になると思うので、きょうはそれについて述べましょう。
 こんどの富士山での事故の前に、全日空による事故がありました。それはボーイング727型の飛行機で、その時は日本人の遭難者が大部分でしたが、133名お亡くなりになっています。
 ボーイングは、言霊では陰の暮れの世「暮陰苦」ということになります。しかも、ク=苦に濁点がついていますから、苦は非常に倍加しています。
 片やBOAC機ですから、ポアク=暮開で、暮れの世が明けるということです。つまりカゴメの唄にあるように、暮れの世が明けてチョンの神様がおでましになるという型示しで、両方の飛行機とも言霊がピタリと合っています。
 また数霊のほうを見て参りますと727型ですから、7+7=14で、(この場合の二は上と下の数をつなぐ意)十四は破れ割れの数霊になっています。また十四は1+4で五の数霊となり、霊によって破れるということです。
 そして、亡くなったかたの人数が、奇しくも一二四名で (二はここでも一と四をつなぐ意)これも一+四=五の数霊となっており、しかも日本人が十三名ですから、一+三=四で、四はシで死にも通じる。
 与える拡張するというヨになれば、素晴らしい数霊になりますが、シ、イコール死という言霊にも通ずる現象で、数霊的にみると、これまた霊界の仕組みできまっていたのです。いつもいうように「宇宙一切、必然にして偶然なし」です。
 また、こんどのアメリカ、カナダの飛行機のほかに、ソビエトのシュルスという名の飛行機が墜落しました。
 富士山の墜落事故の意味するところは、物質文明の世はこれで終わって、五逆で開く、しかも富士から開くということです。
 そのような一連の関係をもっていることに気がつきませんと、ただ単に飛行場の滑走路が悪かった、あるいは機械の故障であるとかいうことで片づけると、たいへんな間違いが起きてきます。
 富士山というのは、ご承知のように、主の神様のご直系の神様が隠り身されたところです。頂上のクスシ神社には、梅をお持ちになった火のほうの観音様、麓の浅間神社には桜をもった水のほうの観音様がお祀りしてあります。そういう神様のご因縁の深い霊峰が富土山なのです。
 先日、皆さんに紹介した読売新聞に掲載されている富士山の写真には、エホバ (ヤハエ=国万造主大神様) の神様にそっくりなお顔が浮き出ておりました。
 その写真では、神様は座っていらっしやるようにみえるのですが、私の考えでは、すでに神様はお立ち上がりになっていらっしやるはずだが、と思っていたところ、今年の1月11日から15日の間、妙に富士山に心ひかれましたので、拝みにいって参りました。
 すると、いままで登ったこともない箱根山上の、ある無名の丘に不思議に登りたくなり、その丘の上で、夢中で富士山を十一枚ほどパチパチ撮らせていただいて、帰って現像してもらったところ、富士山に観音の立像の写真がとれていました。(写真参照)
 それはあたかも「お前に示してあるように、もう立ち上がっているよ」とおっしゃっているようでした。そして、その日の夕刻に、芦の湖で撮った写真(真光44号2頁写真参照)には、太陽が真十字に組んだ光を放っている状態が写っておりました。
 思い返しますと、立教直前に、教団のご神紋章を決定しようと思案の真最中に、富士山でみました太陽の中に、真十字が現われたのと相関達した現象でありました。


54 名前:53(続き) 投稿日: 2004/11/27(土) 16:36
■日本の役割り
 こんど墜落した飛行機は、富士山をどのように飛行したのか謎の航路である、と事故調査委員会ではいっていますが、普通では考えられないような場所で落ちています。このことは、暮れの世が明ける時代にはいった、神霊界、霊界ではすでに主神が立ち上がられているということに人々が気がつかないのに対して、飛行機の落ちる現象で型を示されているのです。
 そして、この飛行機の墜落というのは、実はオリンピックの祭典とも関係しています。
 皆さんは、神のご経給の進展と、天意の転換ということは、すでにみ教えで習得されているが、その中で、霊の元つ国の重大性を、世界の人に気づかせていくために、いろいろな仕組みが起こる。すなわち霊的に目覚めるようまわりから仕組んでいく、というみ教えのあったことを覚えているでしょう。
 そのお仕組みの一つが、こんど日本で開催されたオリンピックなのです。神様は、日本に全世界の旗を立てさせ、そして日の丸の旗を認識させる一方で、かつてのエデンの園、日本から世界各地に行った火(日)の神々を呼び返しておられます。また神様は、万国博の開催によっても、世界の人々に対し霊の元つ国日本ということを、何とかして気づかせようとしておられます。
 しかも、万国博の開かれるまでの間に、日本に対する世人の観念に、大きな間違いがある、ということを示されたのが、こんどの墜落事故の型なのです。
 実は、神光国家であるべきところを、観光国家にしてしまったことに、根本的な間違いがあるのです。今までは観光でもよかったが、これからは神光でないといかんぞ、というお示しです。祈言集の神歌にも、そのことについてハッキリと示され、神光国家にしないと本当の弥栄えは起きないとあります。
    観光の 真義正して日の本の
    貯は栄えなん神光の邦
 そして、日の本の国というのは、今までの日出づる国ということではない。これから明けてくる霊文明の曙の時に、霊の元の人としての役割りが出てくる。日本人としての重大な勤めは、敗戦をしてからが、本当の勤めになるということで、
     日の本や 日出づる国は予言なり
       日の本人よ勤め初めよ
     陽霊の元の 地より明けなむ陽霊文明
       天意サトリて尽くせ世界に
が示されており、また
     日本の 為の日本の人ならず
       世界夜明けよ陽霊の元の人
というようにお示しが出ているのです。
 日本は、資源も資本もないし、せめてあった武力をも失くして、いまや貧乏国で立ち上
がれない。しかしながら
    持たざりし 国に非ずよ持ちて有る
       本然倚さしの霊力あるなり
で、物質文明を凌駕するような、物質文明の行き詰まりを打開指導するだけの、霊的役割りがある。そこに霊の元つ国の根源があったのだ、と神はおっしゃるわけで、いよいよこれからが、日本人が世界のために役立つ時期なのです。


55 名前:53(続き) 投稿日: 2004/11/27(土) 16:38
■幸運・不運
 こうした日本人の役割り、つまり物質文明の行き詰まりを打開指導するだけの、霊的役割りを明らかに示している言葉としては、バイブルに出ている、いわゆる「光は東方より」であり、また、ダルマ大師が「大乗の機根は東の国にあり」と恵果大師にいった言葉があげられます。
 大乗の 「大」は神のことで、大乗とは神に乗るということです。神に乗っている国は東にある、と各聖者が叫んでいます。
 その大元、つまり地球のオヘソであり、世界の霊界の中心である富士山で(その体の面をなしているのがヒマラヤ)、前述のような事故が相ついで起きた。しかもそれが、神様がお立ち上がりになっている時期にぶつかっているというところに問題があるのです。
 これは容易ならざる神の啓示として、日本人はもとより、世界人も見極めて心にとどめておかないと、重大な過ちを犯すことになります。滑走路とか管制塔などの不備といった、小さな問題だけではないので、そういう皮相な捉えかたでは、同じ飛行機の墜落、という現象を見ても意味がありません。
 お亡くなりになったかたにはお気の毒であるが、死をもって、罪穢のアガナヒをしなければならないような人々が、その飛行機に集められてしまう「相応の理」で仕組まれてしまうのです。
またここで大事なのは、人間の幸・不幸という問題です。よく人は「私は不幸だ」とか、「不運だ」とか手がるに考え、口にもしますが、これはたいへんな間違いです。現実に現われた実態だけで、簡単に「幸運だ」だの、不運だなどとは断定できない、重大な問題があるのです。
 つまりすべての運・不運の原因は、はかり知れない遠い過去の世界にその端を発しているのであって、今は良い状態だからといって、必ずしも良い運命というわけにはいかないし、きょうは悪い状態だからといって、先々も悪いとは限りません。人間の運・不運は、生涯を通じてみなければ分かりませんし、さらに肉体死後の問題も考え合わせたら、幸運・不運ということは、決して軽々しく判断など下せるものではありません。


56 名前:53(続き) 投稿日: 2004/11/27(土) 16:39
 こんどの墜落事故にあわれたかたがたの職業、地位をみますと、日本の観光会社と、外国の観光会社の社長さんか、その下請け業務をやっている会社の社長さん連中が多い。
 みなお金持ちで、幸せいっぱいの人ばかりで、しかもご夫婦そろっての海外旅行である。独身者は、亡くなった方の中で、三、四人しかいません。
 全日空のほうの事故のときも、やはり会社関係の重役のかたがたで、北海道の雪見旅行の帰りでした。
 また、事故にあったかたをひとりひとりあげて説明するわけにいきませんが、ある親子は外国で暮らせるといって大喜びをしていた。また別の一組みは、久し振りに故郷へ帰るといって喜んでいた。その両方ともお亡くなりになっています。
 こういうわけで、人間の幸・不幸、運・不運などということは、結局は、目先しか見えない人間には、分からないことなのです。
 私たちが、たとえいま不幸そうに見えても、自分が不運だと思うのは間違いで、ちょうどその人はミソガレ、浄められている時期かも知れません。イエスのいった「貧なるもの汝は幸いなり」で、クリーニングされている段階ですから、それが終われば、「人生の波と節」(御教示選集八頁参照)のみ教えにあるように、やがてすがすがしい運命の人と化すことができます。
 それを、いま自分の運命が悪いと思うから間違ってしまうわけです。逆の場合は、運命がよいと思うど、またこれも間違ってしまいます。運命がよいために、自分のあるいはお家の罪穢をサトルひまがなくて、むしろ積みっぱなしになって、最後に到って大きなミソギを受けてしまったりするのです。
 したがって、人間が悪いと判断することが、逆に神様に対して申し訳ない場合もあるし、良いと決めてしまうことが、実は結果からみると、逆だったりする場合もある。
 ここがむずかしいところで、人間が良いと思うことの多くは、神霊界では逆に悪いことになっているというみ教え、いわゆる大乗小乗のみ教えで、小乗の悪と見られることが
大乗では善であったり、またその逆であるということになります。
 こうなりますと、われわれの人生への処し方としては、祈言集の「神組手の想念」にあるように「事々一切、徹底して主神に感謝し」て、悪いことでも感謝、良いことでも感謝、そして正法からみて、善い場合も悪い場合も反省しては発奮する。
 そのいきかたで、正法を行じ神に念じ、またみ祭りに参加して、神に念ずることが大切なのです。そして、自分の霊格を高めさせていただいて、あとは神がお仕組みのしやすい人、あるいは民族に自分たちが変わっておく。
 そうなれば、災い転じて福となすことのできる人に、一段と飛躍することが可能となってくるのであって、それ以外にほんとうの安定した幸運を得る方法はないのです。その点を今度の重なった三つの事故で、ぜひとも汲みとっていただきたいと思います。


日記作者