暴かれた真光日本語版
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2004年05月25日(火) 098 judge

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「宗教法」(宗教法学会発行) 第5号(1986.11) 25-42頁 大野正男(弁護士)
   (宗)世界真光文明教団代表役員地位確認請求事件 ――教義に関する事項を含む紛争について裁判所の審査権はどこまで及ぶか――


 ただ今、ご紹介に預りました大野でございます。今日、報告をするように、ということは、川島先生からお話があったのですが、初めに具体的な内容に入る前に、何故このテーマを選んだのかということについて、若干述べたいと思います。

(一) 間 題 の 視 点
 一つは、今日ご報告する事件は、宗教法人の内部紛争に関する事件ですが、この種の事件は、最近非常に増えているからであります。
統計的な数値をあげることはできませんけれども、この事件は最初東京地裁の民事第八部、通称商事部に係属しました。
東京地裁の八部というのは、会社関係の事件を扱う専門部なのですがそこの裁判官がいうには、今は株式会社に関する事件は少なくなって、学校紛争と宗教紛争の事件が多い、今や商事部は宗教部に化した、
という話をしていました。ですから宗教法人の事件で裁判問題になっているのが、多くなっているようです。

 二番目に、この事件を取り上げました理由は、午前中に安武先生がご報告になったことと、密接に関連しているのですが、宗教紛争に関する、裁判所の判例の最近の流れが、我々実務家にとって、非常に重大な意味を持っているからであります。
 それは二つの点でいえると思うのですが、特に昭和五五年以降、この種の事件について、最高裁判所が極めて重要な判決をしているのは、ご存知の通りであります。
そして今後、判例の流れがどのような方向へ動いていくかについて、まだ十分な予測がたちえない段階にある。
それだけに現在の判例が今後この種の問題に及ぼすであろう影響を今のうちに十分検討しておく必要があろうかと思います。
 その二は、この争いの対象になった宗教団体の代表者の地位の問題ですが、宗教法人の代表役員に教主とか、あるいは住職とかがなるとされているときに、その地位の有無を裁判で争えるかという問題であります。
 そしてこれに関連いたしまして、代表者たる地位が争える場合でも宗教上の教義、教理に関する事項については、裁判所は審判権がないとされますが、どの程度「関して」いる場合に審判権がないのかという問題が生じます。
 私が今日標記の事件を取り上げる角度は、第一の点であるよりは、この第二の問題についてでありまして、一体どこまで裁判祈が、宗教紛争の判断に関連して、
教理・教義に関する問題について判断することができるのか、あるいはしてはいけないのかという問題を考えていきたいと思います。

 従来の判例は住職という宗教上の地位については判断できないといいつつも、しかしそれが宗教法人の正当な代表者であるか否かなど世俗的紛争を判断する前提としてであるならできるのだという考え方が支配的であったと思うのであります。
昭和四四年七月一〇日の臨済宗慈照寺の最高裁判決は、住職としての地位については審判権はないとしつつも、但し権利・義務関係を包括する意味で、住職の地位の確認を求めるならばそれは許されるのだ、といっておりますし、
昭和五五年一月一一日の曹洞宗種徳寺の最高裁判決も、ある法律上の紛争の前提問題として、住職の地位を争うのであれば、できるのだということをいっております。
但し、この判決で新しく最高裁が付加したのは、その判断の内容が宗教上の教義の解釈にわたるような場合は格別、そうでない限りできるのだという点であります。
さらに昭和五五年四月一〇日の本門寺の最高裁判決は、前提事項としては、宗教活動上の地位に関するものであっても判断できるとしつつも、
同時に、宗教上の教義にわたる事項については、裁判所がこれに立ち入って、実体的な審理判断をすべきでない、と判示しました。
 いったいこれらの判決の射程距離が、どこまで及ぶのかということですが、以上の判決は、理論上のニュアンスは異なりますが
いずれも実際には、代表者の宗教上の地位の存否について、あるいはその選出の方法について判断を示しているのであります。


 ところが初めて世俗的紛争の形ではあっても、教義教理の当否が争いの中心となっているときは裁判所の判断にはなじまないという判決がでました。昭和五六年四月七日の創価学会板まんだらの最高裁判決であります。
ここでは裁判所は紛争の実質判断を全くしなかったのであります。これは非常に重要な意味を持っておりまして、この判決が、どういうような射程距離を持つのかという点は、実は今後の司法上の非常に大きな問題であります。
しかもこの最高裁判決の考え方を宗教上の地位の内部紛争に、直接適用したのが、静岡地裁の五八年三月三〇日、日蓮正宗の法主に関する事件の判決であります。
 そうなってまいりますと、いったいいわゆる宗教紛争のうちのどのような事項が宗教上の教義解釈にわたるような場合にあたるのか、言葉だけで申しますと、「教義の解釈にわたるような」ということがどこまで及ぶのかが、大問題となってくるのです。
と申しますのは、現在における宗教団体の内部紛争というのは、必ずしも直接に教義の解釈をめぐっておこっている聖的なものではなく、もう少し生々しい、俗的紛争の様相を、濃厚に持っているからであります。
 つまりどこまでが聖であり、どこまでが俗であるのかということが混然としているというのが、私共の目の前にある現実の紛争の実相であります。
それは実際には、現在紛争が起こっている色々な宗教団体においては、ある時には聖なるものを俗とし、ある時には俗なるものを聖とするような傾向があるから、
こういう紛争が起こってくるのであって、それを法律家が截然と区別しなければならないというのは至難の技であるからであります。


 そういう点から申しますと、今日ご報告申し上げる事件は、いったいどこまでが聖で、どこまでが俗であるのか、これは私が原告代理人を務めた事件でありますが、
私にはいまだにはっきりわからないのでありまして、具体的な事案を通して、諸先生方のご批判、あるいはご意見を賜わらせていただきたいと思います。

(二) 具 体 的 な 紛 争 の 経 過
 そこで具体的な事件に入らせていただきますが、この教団は世界真光文明教団と申しまして、昭和二六年に岡田良一という方が創始したものであります。
これは宗教法人になっておりますが、代表役員は、この教団で申しますと、「教え主」がなるということになっております。世俗的地位である代表役員と宗教上の最高の地位が分化していない団体でございます。
この地位は、初代の教え主は問題ないのでありますが、二代目の地位をめぐって紛争が発生しました。
宗教上の地位をめぐる紛争は跡目争いのことが多いようでありますが、この教団の規則によると後任の教え主は、これを二代というのでありますが、
現在の教え主が指名したものをもって当てるとあり、指名していない場合には、責任役員会の互選という定めになっていたのであります。
 ところで、昭和四九年六月二三日に、岡田良一という初代の教え主、つまり宗教法人の代表役員が脳溢血で死亡いたします。その二日目に通夜が行なわれました。
どうも宗教団体におきましては、よく通夜に問題が起こるようでございますが、この時に、この岡田良一には養子がありまして、これは甲子という女の方ですが、
この養女が先代からいわれていたといって二代の指名のあったことを教団幹部の人に話をした。


その時の模様は法廷では詳しく証言されていますが、通夜の席に幹部が五〇人ぐらいいたところへ、皆集まってくれということで一室に集まりましたところが、その岡田甲子は、こういうことをいったのであります。
「実は、先代が亡くなる一〇日前の六月一三日の朝に、私は先代に呼ばれた。神殿に呼ばれて、その席で先代の岡田良一はきびしい顔をして、自分は神様に怒られた、昨日、神様との対話があったが、神様に非常に叱られたと。」
というのは、この教団は本山をつくることになっておりまして、熱海でその本山を建てる計画をしていたのですが、なかなか建築の許可がおりないので初代は困っていた事情があります。
「夜中に神様が出てこられて、初代に『遅い、遅い、大和人遅い』とこう申された。神様にしかられたので、これから何とかしなければならない。こういう話が私甲子にありました。
そこで私は、初代が怯えておられるのでこわくなって『お父様にもしものことがあったら、どうすればよろしゅうございますか』と尋ねました。
そしたら初代は、『私に万一のことがあったら、二代は関口さんにお願いせよ』こう言われました。そして自分が肌身にかけている御霊、それを外して自分にかけて下さいました。
『これは二代用の御霊である』そういわれた。もう一つ、ついでに私に渡して『これは父の御霊である』といわれた。つまり二つの御霊を渡して下さった。このように私は二代用の御霊をお預りしています。
おそろしいことでございますので、早く関口さんにお渡ししたい。」 こういう風に甲子さんは皆にその席上で述べたというのであります。
 幹部五〇人全部がそれを直接聞いておりましたので、だいたい正確に、その話の内容を復元できます。そしてその翌日、初代の遺体の前で、甲子さんから関口さんへ二代の御霊というものを授受されるのであります。


 関口さんが受け取った御霊はどうか、どんな物であったかというのが「1」の写真です。これは実は、アメリカの一八六六年の、金貨を首飾りにしているようにみえます。しかし実は、これは金貨そのものではないので、中が開くのです。
これはスイス製の高級時計なのです。スイス製の時計の中に、先代の書いたその「聖」という字が入っている。それがご神体なのです。このことは後に訴訟になってから発見されたことです。
甲子さんによる二代発表とおみたまの授受がありましたから、二代の指名を受けたということで、皆も関口氏を二代様、二代様と呼んでいたのでありますが、ことはそう簡単に進まなかった。
六月二六日に、この御霊を受けてから一遇間も経たない、七月一日に、責任役員会が開かれました。関口氏は責任役員になっていない。岡田甲子氏はなっていた。
甲子氏を含む五名の者が、責任役員会を開いて、教団の規則に基いて岡田甲子を代表役員に選任して、登記をしてしまったのです。
 しかし、そのことは当時五人の者以外誰も知らないし、登記を行なわれたことも、この教団の人たちは知らなかった。七月一三日の日になって、初代の正式の葬儀が日本武道館に集まって葬儀を営むのでありますが、
その時に二代の発表がありまして、初代は二代を関口さんにお願いしなさい、こういうことを言われましたという発表が行なわれました。
 その時の状況を写したのが写真「2」であります。上に飾られている写真が、亡くなった岡田良一という初代でありまして、
その下で挨拶をしてモーニングを看ているのが、関口氏で、二代に指名されたのに対して受諾の挨拶をしているところです。
武道館は、超満員になるぐらいの状況でした。このような中で二代の発表があったので、その後、色々な儀式は関口氏が二代として行なっていたのであります。


 ところが、一部の人々はその後甲子氏を何とかしなければいけないのではないか、霊と肉を分けて、関口氏の方は肉の方を、甲子氏の方は霊の方をやったら等という、
色々な提案がなされますが、八月二日になって関口氏は、甲子氏から初代の本宅である熱海に呼ばれるのであります。
 そこで関口氏と甲子氏と二人だけで会います。そうすると甲子氏が関口氏に対して、こういう御神示がありましたよ、といって本人に見せたものがあります。それが写真「3」です。
これはある文章の上と下を白紙で隠して、真中の字だけをコピーしたものです。非常にわかりにくいのですが、カッコの中は「ヨのみ雲をもちて娘に与えよ」と書いてあります。
後はちょっと判読できません。この紙を見せて、甲子氏は自分が後継者の指名を受けていたという趣旨のことを、非常にあいまいな形ではありますが、関口氏に言いました。
 この時から紛争が表面化するのでありますが、一体この紙は何を意味しているのでしょうか。「ヨのみ霊」というのは、教え主の地位を指すのだと言う人もいます。
確かに教義上、「ヨの御霊」というのは、そういうふうに解釈できなくはないような箇所があります。「ヨ」というのは、教義に入って恐縮でございますけれども、現世を支配している霊魂をさすようであります。
この教団の教義によりますと、アイウエオ、カキクケコと支配する霊魂が変わってまいりまして、今「ヨ」の世界で、その次はラの世界になるのだそうでありますが、
「ヨ」は現世を支配する霊魂を指すものであるというのであります。しかし、この文章に続く筈の上も下もかくされていてわかりません。
 その後、教団のお祭りが行なわれた時に、初めて甲子氏と関口氏の間でどっちが上座に座るのかということで、言い合いになったことがあります。
その時は、関口氏が後に入り、甲子氏が先に入りますが、お祭の主祭は関口氏が行なうという妥協が成立いたしまして漸く会が開かれました。


 そして数日後に、関口氏は写真「4」のような通達を皆に出しました。これは大変、わかりにくいと思うのですが、依命伝達書というのであります。ざっと読みますと、
  「初代教え主様生前の御遺言により、下記の通り御神示を伝達します。ヨの御霊もちて娘に与えよ、四九年六月一三日御神示、
 恵珠様(注・甲子のこと)の使命、及び任務について、地上の代行者である。よってご神事一切を行なう。したがって教団全般を総括し、掌理する。よって教団規則上の代表役員である。
  二代様のご使命、及び任務について、二代様とは、世界本山建立と布教、宣伝拡大の陣頭指揮者であり、表面に立たれるミヤクである」
云々と書いてございまして、こういうものを秘書課長が持ってくるのです。
 この秘書課長というのは、甲子派の推進者の一人で、これにサインをしてくれということで、上の方に○というのは、関口氏が見たという印で、これによってこの通達書が道場長、その他に配られることになりました。
そしてこの日以降は、甲子派が教団の本部を占拠して、関口氏は追っ払われて別の場所に行くということになりますが、これはあまりにひどいではないかということを、
幹部の一部、特に六月二五日の通夜の席で聞いている幹部等の何人かは非常に怒りまして、これでは教え主の地位を僭奪されたようなものである、こんな変なことはあるはずがない、
黙っていてはこの教団は駄目になる、といって関口氏に理非をはっきりさせるよう迫ります。
そこで関口氏は自分が教団の教え主であるということを甲子側に言い渡しましたが、もちろん向うは聞かない。四九年の九月一九日になって、東京地裁に代表役員の地位を定める仮処分を提訴したわけであります。


 提訴いたしますと、その審理を通じまして今申し上げたような経過は出るのでありますが、裁判所は「御神示というのは、何ですか。コピーではないか。もっとはっきりしたものを出せないのか」
こういうことを甲子例に何回もいうのですが、甲子側はなかなか出し渋っている。そして仮処分の一番最後に出したのが二枚ございます。それをご覧に入れます。
 写真「5」が表書でございまして、四九年六月一三日午前二時、久万ぶり重大神示と書いてあります。これは先代の岡田氏の字であることは、ほぽ確認のできるものであります。これが表書です。
次の写真「6」が本文の最後の一枚です。これは「思い出さしめん為、しばし仮にヨだけ秘かに持ちて、ヨの御霊をもちて娘に与えよ、間に合わずこの地、時を待て、八月一〇日二七、所与えられん。
思い立ったら吉日よ。もう、一度他の仕組みでカ 外に うまくそらさんも」というのです。
 この二枚の紙を出したのですが、法廷にはこの原本の御神示綴りを持ってきました。その原本には、四、五枚の御神示が綴られているのですが、その一番先とこの一枚分だけを開いて、後は全部封印して提出したのです。
裁判所がどうしたのか、と聞きましたら、これは宗教上の秘文であるから、他の個所は見せるわけにいかない、何が書いてあるか自分は知っているけれども、それを言うわけにはいかないと、甲子氏はその部分の供述を拒否したのであります。

(注 丸付き数字を「」付きに変更)


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