暴かれた真光日本語版
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岡田光玉氏の霊的系譜
注) 「>」で始まる文章は、N氏に対する質問等や他の書き込みからの引用を示します。
八幡博堂(顕正) 内田良平の弟子で大日本生産党の幹部だった人物。 大正期から始めは東京の神保町や神楽坂を舞台に左翼政治活動をしていたが、その後左翼運動から右翼に転向し、内田良平の大日本生産党に発展解消されその幹部として活動していた。
昭和十一年以後、持病の気管支喘息が発病し十年の間病苦に苛まれるが、戦後の昭和二十一年に生長の家に入信して宗教活動に入った。昭和二十三年夏に知り合いから誘われて、始めて心霊研究団体「千鳥会」の交霊会に参加した事をきっかけとして、千鳥会の組み手になって自宅の藤沢で支部をやっていた。
昭和二十七年「千鳥会」は宗教法人「まことの道」に改称したが、昭和三十年の「まことの道」が事実上解散後、元千鳥会の医学博士、塩谷信男(信和)、陸軍軍人、大久保弘一(智明)、映画製作者、中田武雄(華風)と共に山梨県甲府で「まことの道宗像道場」(まことの道協会)(聖和教会)を舞台に、独自の活動を始めている。 後に、この軍人グループから薫陶を受けたのが、S界真光文明教団の教え主、岡田光玉や、富士宮瓊光(ふじのみやたまみつ)である。
昭和三十五年六月、岡田光玉の審神をしたのは、中田華風と言われている。
八幡博堂に付いて記載が有りました。 http://www2.justnet.ne.jp/~jingu/mediaron-daitojuku.htm
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千鳥会について
「千鳥会」からは、あの「世界人類が平和でありますように」で有名な宗教法人、『白光真宏会』の開祖である『五井昌久』氏も、参加していました。五井氏は当時、生長の家の信者であり、講師も務めていましたが、千鳥会に参加して、自分の守護神から「百知は一真実行に及ばず、誠実真行万理を識るに勝る」という言葉を拝受して、帰宅したその夜、いつものように生長の家の行である「神想観」を行い、統一していると、霊動が起き始めて、閉じた目に霊魂が見える様になったそうです。
五井氏は、それからその霊魂群(実は背後指導霊団だったそうです)と交流してみよう、と決意して、そのまま種種の霊的修行を行わされる破目になってしまい、最後の「想念停止の修行」をクリアして、やっと自分の『神我』と一体になる事が出来た、とその著書の中で語っています。(白光出版、「天と地をつなぐ者」より。)
この「千鳥会」という団体は、五井氏によると、大本教から独立した「日本心霊科学協会」(主催者、浅野和三郎、元・大本幹部)から分かれた会で、主催者は、霊媒師でもあった『萩原真』氏と、塩谷博士を中心に、昭和23年頃、発足した会だそうです。さらに五井氏によると、この千鳥会は、心霊科学協会のように、科学的に霊魂を研究する会ではなく、宗教的、政治的意義を持った神界、霊界、人間界の協力団体で、会員は同志的結合の下に、日本再興、世界救世の大祈願を掲げていたそうです。
そして交霊会が主に行われていたのですが、その中では萩原氏の友人で若くして亡くなったK霊の説明が始められ、その説明の後で、一千五百年位以前に生存していた『大峰老仙』の道の教えが説かれたそうです。この『大峰老仙』は、神界にある『聖徳太子』を中心にいただいて活動しているといわれ、天皇中心主義の、人類救済運動であり、神界霊界には、そうした同志が多数、この肉体界運営のために働いているという事なのだそうです。
現在、千鳥会は『真の道教団』と名を変え、現在は交霊会も一切行ってはいない、との事でした。 http://www.makoto.or.jp
しかし、この『千鳥会』がなければ、白光真宏会の五井昌久氏の存在しなかったという事を考えると、当時、この会はかなり重要なみ役を司っていた会だったのかも、知れません。
後、千鳥会は浅野和三郎系統というよりは、小田秀人の菊花会の系統です.菊花会の機関紙「いのち」に岡田光玉と塩谷博士が一緒に移っている写真が載っていました。(昭和四十四年)
昭和五年十一月三日、大本シンパの小田秀人が中心になって結成された心霊研究団体「菊花会」の設立に関しては同人として岡本霊祥(天明)、大嶋豊(後の東洋大学総長)、出口日出麿、(大本三代教主直日の夫)、小高英雄(大本ヨーロッパ宣伝使)、芹沢光治朗(作家)、笹目恒雄(秀和、モンゴルの笹目仙人)、中野貞四郎(出口三千麿)、岡田健文(大本信徒で作家)、岡村孝(バレエ演出家)、中田武雄(映画製作者)等と並び名を連ねている。
小田秀人は広島の旧家に生まれて親から医者に為るように期待されていたが、帝大と京大を計十年かけて卒業した後、昭和三年十一月『本能の声』を出版して青年詩人として暮らしていた。 小田の元に『本能の声』を読んだ人類愛善新聞記者が尋ねて来た事をきっかけに、大本との係わりが出来て綾部を訪ねて心霊現象に興味を持って「菊花会」を設立するが、一年ぐらいして直ぐに運営に行き詰まって休会してしまった。
第二次大本事件後には日本国内では解散させられていた紅卍会関係の動きで、昭和十三年頃から呉清源、大嶋豊等と語って日本に於ける紅卍会を設立しようと遠藤柳作、八田嘉明、元陸軍中将松井七夫(松井石根陸軍大将の弟)と活動して、大陸と日本を行き来して国内の紅卍会を復興させようとして「世界紅卍会後援会主事」という肩書きで朝鮮や中国に渡って地下で活動していた。 その一端は昭和十四年に出版された『東亜建設と仏教』(財)仏教連合会編というアンソロジーに結晶されている。 この本に寄せられた執筆者を見れば、松井石根、小田秀人、大嶋豊、大久保弘一、といった後々面白いメンバーである。
心霊研究をしていただけで特高から始末書を書かされた事も有ったそうでだが、特高側は紅卍会と大本の隠れ信者の繋がりを察しての行動かも知れない。
小田秀人と萩原真の縁は、戦前の満州で日高見農場という開拓農場を経営していた若林初枝(旧姓、川上)という女傑で女大陸浪人として有名な人物の存在があった。 東京の高等女史師範学校を卒業した才女で、神道家川面凡児の流れをくみ右翼や左翼の青年達を傘下に入れて活動していた。 若林初枝の父親、川上賢三は日露戦争の後、大連に残って地元の経済発展に貢献していた。 又、この人物は大本の人類愛善会大連支部長の肩書きも在ったので、大本との関係も在ったようだ。
若林初枝はその後夫と離婚して内山若枝と名乗り、日本国内と大陸をまたに駆けて瞬出期没の活動をしていた。 昭和七年頃、成城学園に日本の拠点を造り、宗像三女神から名を取って巴章呂(注、巴は八幡の巴紋から取り、呂とは宮の意味である。)と名付けた。 このグループの活動から大連に満州神社が建立された。
内山若枝は、道院の道名を白光と云い、道院紅卍会の女道社(道院の女性メンバーから構成される結社)のトップだった事もあり、満州大連の巴章呂には八幡神社と老祖を祀っていた。
真の道で現在も唱えられている。
みちから ちはえて あめつち ゆりませ
顕彰大神通力
これらの言霊は内山若枝が昭和八年十二月二十三日に霊的に授かった言霊である。
その後は日高みほ子と名乗り、篁白光とも名乗った。 そのグループは《篁(たかむら)の一団》と呼ばれていたという。 戦後大本に入った三浦一郎や小田秀人と懇意にしていた。戦時中は板垣征四郎の特務機関で働き、内山若枝の傘下には、大社教大坂分院の千家尊建、陸軍大佐大久保弘一、萩原真、日高一輝、等が居たのである。
日高みほ子は戦後満州でソ連に抑留されたまま行方不明になっている。 心配した小田秀人が交霊会(成田で萩原真を霊媒に使ったろうから、昭和二十二年頃の事と思われる。)で日高みほ子の生霊を呼び出したところ、現われた日高みほ子の生霊は死人のような顔つきだったので、小田秀人は《日高みほ子はもう死んでいるだろう》と諦めたという。
萩原真、大久保弘一、は昭和二十三年六月結成された千鳥会の中心メンバーである。萩原真は満州の日高見農場に住み込んでいる内に霊能が発揮され、昭和七年一旦帰国後小田秀人等の指導で物理霊媒の才能を発揮し始めたのである。萩原真は日月神示《まつりの巻》の四十九人の御筆先を渡された一人である。
大久保弘一は参謀本部付きの軍人で、二、二六事件の折は決起軍将兵に呼びかけた《兵に告ぐ》《今からでも遅くない》の起草者である。 軍のプロパガンダの担当者であった。 千鳥会の機関紙「千鳥」では篁智明と名乗っている。
萩原真も戦後九十九里でしていた鰯の魚油の精製や製塩の仕事が、昭和二十三年九月のアリオン台風で財産を全て失ったりして大変な苦労したのだが、その前後東京の心霊相談所に所属して、元神政龍神会の塩谷信男医学博士と組んで昭和二十三年六月心霊研究団体《千鳥会》を発足させて、現在の宗教法人《真の道》として到っている。
千鳥会自体の霊的な本源が紅卍会に在り、紅卍会の五教同根(基、仏、回、道、儒)の思想を継承して昭和二十三年頃のフーチの神訓に、
《大和の国、神の国雛型なるにより、外つ国根の国にあれませるもろもろの事共ことに雛型なし大和の国におはすものなり。 宇内に五教あり、天に五気あり、地に五行あり、人に五臓あり、五体あり五感あり。 凡て同じきみの力の現われなせるものなり。外つ国の五教、大和の国に姿をうつして五つの教えと現はれしなり。 (大和の五教とは、天理、大本、黒住、金光、御嶽)五感別々ならざる如く五教亦一々のみにては全くからざるなり。 誠なる爪と牙のとの不用なる神の国のみ姿は、五教一に示されたる五にして五にあらざる一にして五なる直の教えなり真の道なり。、、、、》
中田武雄と大久保弘一は親類関係があったという。中田武雄(華風)成城に住み真の道の《キの宮》というのを、奉祭していた。昭和三十五年六月、岡田光玉の審神をしたのは、成城の《キの宮》に於いてである。
千鳥会及び真の道の機関紙上では岡田光玉(良一)の名を見つける事は出来なかった。初期には千鳥会に生長の家や救世教から信者が流れ込んだが、岡田光玉はもっと後に知って、昭和三十年以降に軍人ルートで真の道協会の方に繋がりが出来たのであろう。
霊的な事柄に興味の在った軍人達がかなり千鳥会に集まっていた事実がある。 岡田光玉のその一人だったと考えられる。
参考文献を入れるのを忘れていました。
戦時中の右翼の動向は、「ユダヤ問題と裏返した日本史」三浦一郎、八幡書店から復刻版有り。が参考になります。
真の道に付いては「真を求めて」萩原真 「飛翔」萩原真追悼集が参考になります。真の道全般に付いては、「人間の幸福」が参考になる。教団本部で購入可能です。
真の道協会寄りの情報は、「霊は生きている」塩谷勉 地球社 平成元年 著者は塩谷信男博士の弟で故人、矢野祐太郎に会った思い出等の記述有り。
小田秀人に付いては「四次元の不思議」潮文社 前記の文は大体この辺を使いました。 大概は国会図書館で閲覧出来るでしょう。http://webopac2.ndl.go.jp/
千鳥会機関紙 「千鳥」は3冊「真の道」は約3年分「まこと」は全部?入っていたかな。 「真光」は昭和四十四年から入っていたような、ギラギラした表紙が印象深い。
「真の道」誌をコピーして持っていたら、岡田光玉の説経の元ネタが入っていたらしくて、驚かれた事が有りました。フの言霊の吹き寄せ吹き分けとか、台風よけの話等、塩谷博士が執筆した論文から全部移している訳ですね。(台風よけの話は紅卍会が元ネタ)ヨの御霊も元ネタは「千鳥」第7号塩谷博士が執筆した「龍神物語」から移しただけですね。 アカナヒ、カラマラとか真光資料の文脈では意味不明ですが、千鳥会ではちゃんと解説されている。 (この号は国会図書館には架蔵されていない。私所有)何所から引いてあるか知っている人間から見れば、真光の教説はお粗末極まりない物です。 「御聖言」の原文が改変されている問題ですが、以前仲間内でも話題に上がりました。「御聖言」を岡田光玉に授けた霊が大峯老仙である事は、「御聖言」の中に所々大峯老仙の口調が残っているので「真の道神示」と読み比べれば一目瞭然、中学生程度の文章読解力があれば異論は無い筈。
原文改変は「寸教」というご教示集もそうで、昭和三十八年?に出た最初の講演録から恐ろしく改変されている。 原文にはアジャパーの世とか落語調の駄洒落満載で下町のオジさんのような親しみがあったが、今のは厳格な文章にされて真の道の用語がカットされている。是ほど教祖の教えが抹殺されている教団も珍しい。(○○真光の事)
数人の真光の古い組み手だった人と知り合いだが、生前の岡田光玉は自分の霊的な背景に付いて隠してなどいず、色々面白い本など教えてくれたと言う。(矢野祐太郎の神霊正典、等) 岡田光玉が急死した後の混乱後、組み手達が岡田光玉の霊的な背景を求めて肝川龍神や天津教などを周って歩いたそうです。
分裂騒動や肝川龍神や神政龍神会に人が流れ出す事に危惧した崇教教団サイドが、岡田光玉の霊的な背景を封印して嘘八百並べ出したのが真相だろう。数人の古い組み手だった私の知り合い達は、岡田光玉の霊的な背景や、自称娘が妾上りとかみんな知っていましたよ。おみたまの中身が呪符に変わったいたとか。 最早まともな霊統じゃないとわかる。
ここまで来ると、岡田光玉も可哀想な人物だなと思う。 教祖が書いた本物の文献を復刻するのも、真相に向かう一つの手立てだと思います。 >昭和三十五年六月、岡田光玉の審神をしたのは、成城の《キの宮》に於いてである。
この情報は、陽文研の古いメンバ―だった人から聞きました。 崇盟五道という天杖(フーチ)は、前回引用した
>外つ国の五教、大和の国に姿をうつして五つの教えと現はれしなり。 上記の事を指しています。
現在千歳烏山にある「真の道」、甲府にある「真の道協会」は別団体です。 以前昭和二十八年頃まで真の道の中心的な組み手だった柿内さんという方に、私が直接《岡田光玉という人物をご存知ですか》と尋ねたら、同じく組み手だった奥様と口を合わせて《全然聞いた事が有りません》と答えたのです。
因みにこの方も元職業軍人で、戦後パージに会い生きる希望を失い悶々としていた時に、軍人仲間から千鳥会の存在を教えられて参加したそうです。昭和二十八年に警察予備隊(後の自衛隊)に入隊する為、当時は思想関係がうるさく真の道から離れざるを得なかったそうで、面接の時に《真の道は右翼の隠れ蓑でないのか》と質問されたそうで、当時の官憲の考え方が判るエピソードです。
岡田光玉は昭和三十年以降に「真の道協会」と接触したものと考えられます。
訂正 バレエ演出家は、岡村祥三で岡村孝とは別人。二人共大本信徒。
訂正 >移している 写している
>変わったいたとか 変わっていた
>瞬出期没 神出鬼没
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