楽助さんが「とある科学の超電磁砲」に関連して自説を発表されていたので、それに便乗して、僕も今読んでいる京極夏彦氏について書こうと思います。
京極氏といっても、そんなヘビーに読みこんでないのですが(百鬼夜行シリーズの『女郎蜘蛛の理』を読み始めたあたり)、とりあえず読みながら思っていること。 それは、重そうに見える百鬼夜行シリーズも結構俗っぽい要素をよく使っているということ。
ライトノベルが最近萌えに特化しすぎていることは自分としては非常に哀しいことなのですが(最近ライトノベルよりTRPGリプレイに趣味が移行している原因のひとつ)、京極氏も百鬼夜行シリーズでは性的な話題を多く出しています。
例えば、各シリーズで一話に一人は凌辱された(あるいはした)過去を持っているのです。しかも幼女やら中学生やら。また、アングラな宗教儀式としての複数人の性行為とか。 また、美人も必ず出てきます。現実世界も不細工より美人のほうが多いくらいだと思うので、必ず出てくるくらいはよいと思います。 性的以外にも、暴力的な表現も多いですね。百鬼夜行シリーズは殺人事件を取り扱うミステリーなので死人が出るのですが、大抵酷い殺され方です。
そういう要素は人間のリビドー、というのですか、そういうのに訴えて作品の魅力の一つになることは確かです。 そして、京極氏のそれはライトノベルに強く出ている媚(こび)を感じさせない、上品ではないですが淡白な表現になっており、自分にとってはちょうどよい表現であるような気がします。
人が魅力を覚えやすい要素を入れつつ、媚びた雰囲気を見せない。ここが文章の上手、下手を分ける一要素なのでしょうな。
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