2006年05月23日(火) |
呪縛の蝋・前編(3)の日 |
呪縛の蝋
3
今の旧白灯村は、主導権が片品町のほうに移ったため、そういった動きはあまり見られないが、昔はどこの村にもあったように村興し、というものを考えたらしい。 そういった計画の下、少しでもこの村のことを知ってもらおうと、村の主産物である木蝋の関連もあり、見物客を見込んで建てられたのが『白灯村蝋人形館』である。 そう説明する赤羽教授の案内によって辿り着いた木造の洋館を眺めて、千鶴は言った。
「……またずいぶんとそれらしい雰囲気で」
遠目には白亜に見えたが、近くによると木造の壁はささくれ立ち、塗装があちこち禿げ、申し合わせたようにツタが絡みつき、古さにむしろ誇りを持った感じすら見受けられる。確かに、“ああいった噂”が立てられるにふさわしい雰囲気といえた。 近づいていくと一人の老人が、蝋人形館の入り口前をほうきで掃いている。彼も、こちらの気づいたのか、ほうきを動かす手を止め、顔を上げた。 「赤羽君? いつ帰ってきてたんだ?」 「昨日ですよ。お久しぶりです、伊戸部さん」
伊戸部(いとべ)と呼ばれたその老人に、赤羽教授はぺこりとお辞儀をして挨拶をする。
「後ろの雛子ちゃんの隣にいる人は?」と、伊戸部老人は赤羽教授の後ろで立っている千鶴に視線を送って尋ねる。この時期は外部の人間の立ち入りを制限されているために、明らかに見たことのない人物に戸惑っているようだ。
「彼、青山君は私の教え子でして、恥ずかしながら例の噂に引かれて忍び込んできたのです。本来は即刻帰すところなのですが、せっかく来たのですから、教え子のよしみで、人形館くらい見学させてやろうかと」
そういうわけで、人形館を開けてもらえないだろうか、と赤羽教授が頼むと、伊戸部老人は答えを渋り、外来である千鶴を怪訝な目つきでしばらく見る。そして、うーん、と唸った後、「……ま、いいでしょう」と、ようやく答えを返し、腰に掛けてある鍵束を赤羽教授に差し出す。
「君なら勝手が分かっているだろう? どうせこの後中の掃除もするつもりだったから出るときも鍵は閉めなくてもいい。ただ、帰るときにその鍵をワシに返すのを忘れないようにな」 「ありがとうございます、では」
鍵束を受け取った赤羽教授は、老人に一礼すると、千鶴と雛子をついてくるように手招きをした。
外見はいかにも古く、ほこりっぽい部屋を予想していたのだが、中は意外に清潔に保たれていた。
「それはそうだ。この蝋人形館は今でも普段一般公開しているのだからね」
もっとも、客はほとんど入っていないらしいが、と正直に感想を述べた千鶴に赤羽教授は苦笑して答えつつ、電灯のスイッチを入れ、洋館の玄関ホールに灯をつける。 窓から入ってくる日光では陰影がきつく、あまり良く分からなかった室内が伝統に照らされたその瞬間、千鶴は思わず息が詰まった。 目の前にクラシックないでたちの執事と給仕が立っていたのである。その手前には『いらっしゃいませ、白灯村蝋人形館へようこそ』 と、達筆な楷書体で書かれた手紙が貼り付けられたスタンドが設置されていた。
「あぁ、びっくりしたぁ。蝋人形だったんだー」 「まるで生きてるみたいでしょ?」
面食らった千鶴の反応を楽しむかのように、雛子は彼の顔を覗き込みながら得意げに言う。 千鶴は蝋人形を実際に見るのが初めてというわけではない。卒業論文で蝋人形を取り扱っただけにいくつか蝋人形館を覗き、その精巧さに目を見張ったものだが、ここにある蝋人形は格が違う。まるで、実際に生きている人間をそのまま固めたような現実感があるのだ。いつ呼吸を始めてもおかしくない。
広い玄関ホールにロープで仕切られた順路に沿っていくと、このような豪奢な洋館に住む欧州貴族の生活をテーマに、さまざまな情景が蝋人形で表現されており、それぞれの情景についての説明がそのどれかの人物の台詞として手紙に書かれ、スタンドに貼り付けられていた。 企画自体はありふれたものだが、ポットから紅茶を注がれる瞬間を表現したもの(樹脂か何かで紅茶を表現している)など、芸が非常に細かい。
「これは職人の腕がよほど良かったんだなー」
すっかり感心した様子で言う千鶴を、赤羽教授は「ここはまだ序の口だ」と言って、階段のほうへと導いていく。 二階の展示部分は、階下とは趣が大幅に違い、生活習慣の紹介という感じはしない。まるで泉から上がってきたばかりのように、服ごとずぶぬれになって絡み合っている『水の滴る男女』、足の方から何か黒い液体に体を絡めとられている男を表現した『黒い衝動の束縛』、被弾して脇腹から出血しているが、木に寄りかかって安らかな死に顔を見せている兵士『ようやく見つけた安らぎ』。
「こりゃ珍しいねー」
蝋人形は元々、医学研究のために解剖した遺体をそのままの形で蝋製模型として残すために作られたものだ。その後、歴史的に重要な場面を再現したジオラマを作って展示したのが蝋人形館の始まりで、現代の蝋人形館は、それに加えて有名人や故人を本物そっくりの蝋人形にして展示しているものが人気を博している。 蝋人形、というものは低い温度で溶けるという性質が不安定なのか、このように何らかのメッセージをこめた芸術作品としてはほとんど考えられない。蝋人形作りはどちらかというと依頼されたものを黙々と作るような職人芸なのである。 だが目の前にある蝋人形は明らかに“美術作品”として製作されたものだ。千鶴はあまり美術方面に造詣があるほうではなく、美術品としてのこれらの作品の良し悪しは分からないが、たしかに珍しい。
そこで、製作者の人格に興味が移ったところで、千鶴は思い出した。 「これを作った人が例の蝋人形魔術を?」 「そう、伊戸部礼二(いとべ・れいじ)、という名前の男だ」 「伊戸部?」
というと、先ほど表を掃除していた老人の名前ではなかったか。そういう意味合いでたずね返すと、赤羽教授もそれを察したのか、首を横に振って答えた。
「いや、彼、伊戸部宗太郎(いとべ・そうたろう)氏はその父親だ。この人形館においてある蝋人形を作っていた最初の蝋人形職人でもある。……ついてきたまえ」
教授は半ば言い捨てるようにぼそりと言って、きびすを返すと先ほどの階段を降りていく。
「………」
千鶴は先ほどから小さな後悔を覚えていた。どうも、自分が蝋人形魔術事件の話題を振ってから、教授の表情が暗い。普段から紳士めいた振る舞いで、温和そのものの教授がここまで心の闇をちらつかせたことがあっただろうか。 ほとんど好奇心だけで首を突っ込んでしまったが、自分は知らずに赤羽教授の心の傷に触れていたのではないだろうか。 ここを見終わった後で、本当に赤羽教授が自分に帰ってほしいと願っているなら、本当に帰ろう。
赤羽教授は階段を降りると、先ほどの順路を逆にたどるのではなく、仕切りのロープをはずして、階段の奥に続く廊下に千鶴を案内した。そこは、展示用に装飾されているわけではないため、さきほどとは変わった殺風景さと薄暗さが目立つ。 その廊下の奥にあるドアを教授は開けると、その向こうに現れた階段を一段降りていく。
「薄暗いし、勾配が少し急だ。足元に気をつけたまえ」
教授のその注意どおり、その狭い階段はバリアフリーの精神など欠片も感じられない急勾配で、一段一段が狭く、気を抜くと踏み外してしまいそうだった。 それを抜けると、二十畳程度の広さはある板張りの部屋にたどり着く。薄暗かったので中はあまり見えない。代わりに、この部屋の第一印象を訴えたのは嗅覚だ。鼻腔をくすぐるこの独特のにおいは間違いなく蝋のものだった。
赤羽教授が真っ暗だった(地下室なので少し地上に出ている上部に申し訳程度につけられた窓から以外、まったく日光が入ってこない)部屋の電灯のスイッチを入れると、部屋の全貌が明かされた。 そこはアトリエだった。二十畳はありそうな広い部屋にさまざまな蝋人形を作る道具が並べられ、そこここに散らばっているのは失敗したのか、腕や足、首といったパーツがあり、立てられたイーゼルの上にはデザイン画が描かれている。 中でも目を引いたのは、部屋の中央に置かれた“六体”の蝋人形だった。これらには何の趣向も凝らさず、かといって一階の蝋人形群のように欧州人を模したものでもない。れっきとした日本人であり、格好としては昔の日本では普段着だった袴などが着せられている。
「これはひょっとして……」 「例の魔術で作られた蝋人形だよ」
教授はその中のいったいに歩み寄ると、椅子に腰掛け、肖像画を描く画家に向けたようなすこしはにかみを混ぜた微笑を浮かべる女性の顔を覗き込んだ。 その容姿を見た千鶴は、隣にいた雛子と見比べた。その視線に気づいた雛子はむっ、とした表情を見せて冷たく言った。
「あたしのお母さんのお姉さん。それに……」そして、目を伏せて付け加える。「オジサマの恋人だった人」
雛子の言葉に、千鶴は弾かれたように赤羽教授に視線を移した。教授は、やや自嘲気味な笑みを返して言った。
「驚いたかな? 君の聞いた噂の事件、当時私は君が思うより遥かに近くにいたんだ」
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