言の葉孝

2005年06月24日(金) ○○三段活用の日

 終わらないよう、まだまだあるよう、と半泣き状態でゼミ発表のための原稿を書いていた昨日の夜。そこにお母サマに夕御飯だ、と呼ばれまして、階下に降りてみるとそこにあったのはカレーライス。

想「コーンが入っているとは珍しいなァ」

 といいつつも、実はこの具には見覚えありました。昨日のトマトスープの具とほとんど変わらんのです。で、遠回しに言ってみる俺。とぼける母サマ。そして真相をぶっちゃける妹。

妹「これって一昨日のコンソメスープからやんな」

 マテ妹。
 つまり何か? このカレーはコンソメスープ → トマトスープ → カレーと進化を遂げてきたってのか?

母「ははは、バレてた?」

 認めんな、母。
 
 でも普通の味でした。むしろいつもより旨い。
 ま、捨てるのももったいないし、続けて同じものを出すのも忍びないと、工夫を施すのも別に悪かないし。

 ん、いいんじゃないですか?


 あちらとかこちらで話題になっているケータイ配信、あれは同じ企画なんでしょうかね? 何にしろ流石ですな。

 とくに俺的三大web作家の一人(一人はプロになられてしまいましたが)であるこちらは「人なる」本、売り切れ必至っぽいし、羨ましいくらいの人気っぷり。同じ小説書きとして妬ましく感じます、いやマジで(笑)。
 年齢も俺と二つくらいしか違わないだろうし、年季とかいう問題ではなさそうですね。いや? 僕もあと二年くらい頑張れば100万くらいラクショーでしょうか(無理無理)。


 話は戻りますけど、ケータイの画面じゃなくて、デジタルノベル専用の端末機(B5サイズぐらいがイイかな? 解像度が高ければ文庫サイズでもイイですけど)があれば便利なんですけどねー。いろいろ作品のデータを入れておけば持ち運んだ先で読める、とか。わざわざ幾つも本を持っていかなくてもいいとか。
 そしたら、ネットノベルもっと読めるようになるのに。


 以下、英語史の続き。
 興味ない人はかなーり下までお飛ばしあれ。




3、中英語の時代(12世紀初め〜15世紀ごろ)
 〇ノルマン・コンクエスト
 さて、古英語の時代にも何度か変化があったわけですが、それが中英語と名前を変えるまでの大変革があったのは1066年に始まったノルマン・コンクエストです。この事件を語るには、まずノルマンディー公ウィリアムについて話さなければなりません。
 アングロ・サクソンを襲っていたヴァイキングですが、それはイギリスだけの話ではなくフランスにも襲来していました。そのうちにイギリスの場合と同じく、同じゲルマン人ということで平和共存していくようになります。この際、このヴァイキングの首領はノルマンディー公爵としてセーヌ川下流に領地を与えました。これがノルマンディー公国の始まりです。このノルマンディー公爵家から出たのが後に征服王といわれるウィリアムであります。
 そのころ、イギリスにはウェストミンスター寺院を建てた証聖王エドワードがいましたが、彼は子供を残さずに死んでしまいました。そこで後継者に選ばれたのが王の右腕として働いていたゴドウィンの息子であるハロルドです。
 そこにウィリアムが異議を唱え、自分こそが後継者として相応しいと名乗り出ます。大きく三つ、「自分の妻がアルフレッド大王の血を引いているのに対し、ハロルドは王家の血がかけらも流れていないこと」「生前、ウィリアムがイギリスを訪ねた際、エドワード王は自分に王位を渡すことを約束してくれたこと」「以前ハロルドの危機をすくい、その際彼はウィリアムに家来になることを誓ったことがあること」という理由を挙げました。
 神聖ローマ帝国皇帝やローマ教皇に断わりを入れた後、1066年にウィリアムはドーヴァー海峡を渡ってイギリスに攻め入り、ハロルドはそれを迎え撃ちます。この闘いはハロルドの戦死によってウィリアムの勝利に幕を閉じます。ところが、ハロルドの臣下たるイギリスの貴族達は、ウィリアムへの抵抗を続け、それは5年間も続きました。

 そんなわけで抵抗したイギリスの土着の貴族はほとんどいなくなってしまったため、空いたポストに入ったのはフランス語を話すノルマン人です。ノルマン貴族の上陸とともにそれに付き従っている騎士もかわりますし、修道院に入る修道院長もウィリアムがフランスから引っ張ってきたノルマン人です。つまり、上層階級と呼ばれる人々がそっくり入れ代わってしまったんですね。
 で、入れ代わってきたノルマン人が話すのは勿論フランス語であります。ところが、こればかりは入れ代わらなかった小地主や農民などの下層階級の人間達は土着の人間、つまり英語を話す者達のまま。ということで、ノルマン・コンクエスト以来、イギリスの上層階級と下層階級で話す言葉が全く違うという事態になってしまったのであります。

 その結果、後々に面白い影響が生じますが、中でも有名なのが肉に関する単語です。
 「牛」は「ox」、「牛肉」は「beef」。「鹿」は「deer」、「鹿肉」は「venison」。「豚」は「pig」、「豚肉」は「pork」。詰まるところ、調理されて肉になった状態と、生きている動物で全く違った単語になるんですね。日本だと「牛」。その肉だからその後ろに「肉」を付けて「牛肉」。「豚肉」や「鹿肉」でも同様です。これが標準で英語のこの現象は非常に特殊なんです。
 実はこれらの単語にはある法則がありまして、生きている動物の場合は古英語語源、調理された肉の場合はフランス語語源なんですね。これは育てたり狩ったりする農民が生きている動物を古英語でよび、料理されて食卓にのぼってきた肉を貴族がフランス語で読んだ結果なんですね。


○イギリスとフランスの完全分離
 さて、ノルマン・コンクエストの結果、国を運営する立場である貴族達が入れ代わったワケですが。入れ代わった貴族達の言葉はフランス語でした。つまり、国で発行される公的文書も全てフランス語だったのです。ところが、この状況を覆し、英語が公的な場に復活するほどの事件が起きます。その引き金となったのが制服王ウィリアム一世の子孫である欠地王ジョンです。
 欠地王ジョンが生まれるまではウィリアム一世の子孫が代々隆盛の一途を辿ってきました。特に顕著なのがウィリアム一世のひ孫にあたるヘンリー二世です。彼が妻としたのはアリェノールという女性で、何とフランス王妃だったのです。無論、王妃ということはその夫はフランス王だったわけですが、アリェノールはルイ七世と離婚し、ヘンリー二世と再婚します。アリェノールは英語で言うとエレオノーラ・オブ・アキテーヌ、つまりアキテーヌ公爵の娘だったので、アキテーヌ公爵領は全てヘンリー二世のものとなり、オーベルニュ、トゥ−ルーズ伯爵領の宗主権のおまけ付き。結果から言うと、ヘンリー二世の支配下にフランス全土の三分の二を収めてしまい、フランス王よりも権力の大きなイギリス王となるのです。
 さて、このヘンリー二世には二人の子供が生まれます。リチャードとジョンというのがその名前なのですが、先に王になったのは兄のリチャード、実はこの人物が有名な獅子心王リチャード一世であります。第三回目の十字軍への参加で勇名を馳せ、後にフランスで戦死した兄の代わりにイギリス王になったのがジョン、先程述べた欠地王です。
 ジョンは即位前にイザベラという女性と結婚するのですが、即位後に離婚し、イザベラ・ダングレームという別の女性と再婚します。この女性の立場というものが曲者で、リュジーニャンという貴族の婚約者だったんです。そこを強引に結婚に持ち込んだりしたモンだから、相手も起こりまして、フランス王の力を借りてジョン王の領地に攻め入ったんですな。それであれよあれよという間に、領地が奪われてしまいまして、結局ウィリアム一世の故郷であったノルマンディー公国も取られてしまい、ジョン王の領地はイギリスのみになってしまったのです。
 イギリス王達の例は極端と言えますが、他にもイギリス、フランス両方に領地をもつ貴族達がいました。で、彼等の場合はイギリス、フランス両方の王に忠誠を誓うことができていたのです。ところがこの事件のあと、これらの貴族達は忠誠を誓う王をどちらかに決めなければなりませんでした。これは、奇妙な融和を見せていたイギリスとフランスをハッキリとした形で分かつものです。これは「1204年の事件」といいます。


 ○英語の公的復活
 その後の歴史の流れの中で、このイギリスにすむ人達はイギリス人たるアイデンティティを築いて行きます。
 その中で特に大きいのが百年戦争ですね。これはエドワード三世の1337年にイギリスとフランスの間で起こった戦争で、ヘンリー六世の1453年まで続きました。当初、弱いと言われていたイギリス軍が最初は大勝利を飾りますが、その後は押したり引いたりの綱引き状態。休戦も挟み、また再開されてヘンリー5世がフランス王をも兼ねるという大勝利を目前にしたところにジャンヌ・ダルクが現れ、たちまち大逆転されてフランスのイギリス軍はイギリスまで追い返されてしまい、戦争は集結します。
 とかく戦争というものは愛国心を呼び起こすもので、この戦争の間に、国民意識は非常に高まったと言っていいでしょう。
 そんな中、土着語としかみられていなかった英語の地位が上がる出来事が起きます。1350年頃に黒死病が流行し出すのです。この結果、全人口の三割以上が犠牲になるわけですが、伝染病というものはとにかく衛生状態によって感染率が上下します。つまり、貴族より労働者の方が、圧倒的に死者が多かったのです。貴族は基本的に働かなくても食って行くことは出来ますが、それは彼等の元で労働者が働いていたからで、黒死病による労働者不足に貴族達は苦します。
 とうことで、稀少価値のついた労働者達の価値は上がり、彼等の立場は強くなります。そして彼等の話す英語の地位も向上したのです。
 また、上が戦争に忙しかったからか、タウン、シティといった地方自治体がたくさん生まれました。このコミュニティは土着の国民が主な構成員であったため、ここで話される言葉は英語、以後この地方自治体が力をつけていき、共に英語も力を強めて行くのは自然の流れでしょう。

 その結果、1362年、議会の開会式が英語で行われ、また訴訟法において法廷の審理、判決等を英語で行う旨が決定されました。つまり約三世紀振りに公的な場に英語が復帰したのです。

 ○中英語の変遷
 先に述べた通り、古英語もその時代の中で変化を続けて行ったのですが、この中英語、ミドル・イングリッシュもその例に漏れません。『講談 英語の歴史』ではその変遷の様子を四段階に分けて考えられています。
 先ず、第一段階が1150年から1250年くらいまでの100年間。この時代はウィリアム一世とその子孫が隆盛を極めた時代だったので、彼等の使うフランス語が非常に強大で、英語がほとんど表にでてこなかった時代です。ですが宗教的な文書でミドル・イングリッシュが使われているものが少しでていますし、その他にも残った文書がないわけではありません。この中でも重要だと言われているのが1166年の『不動産回復令』です。この文書は英語で書かれていたのですが、法律用語等は全てフランス語に置き換わっていたんです。
 第二段階目は1250年から1350年くらいまでの100年間。先程述べた「1204年の事件」から50年経ってのことですから、すでに王家の権力が薄れ、イギリス人のイギリス人たるアイデンティティが確立されて行く時期ですね。この時期の特徴は騎士物語、英語で言う“ロマンス”が流行し、幾つもの騎士物語が英語に訳されました。この岸物語の流行の裏には、獅子心王リチャードという地元出身の有名騎士の影響があったことは間違いありません。中世騎士物語の中でも超有名なアーサー王物語はこの時流行った騎士物語の代表格です。
 第三段階目は1350年から1400年までの50年間です。この間に起きたことと言えば、これも先ほど述べた1362年の英語の公的復活とそれからの時代ですね。この時代にイギリスはある大作家を生み出します。ジェフリー・チョーサーです。英語による本格的な文学の祖とも言える人で、文学者によっては英文学はチョーサーから始まると言う人もいるそうです。そして、古英語の見本としてアルフレッド大王の影響下の文書があげられたように、中英語の見本として先ず上げられるのはチョーサーの作品なのです。
 ミドル・イングリッシュの最終段階は1400年から1500年に掛けてでありますが、この時代で起こった大きな事件と言えば「バラ戦争」であります。しかしそれは英語にはあまり変化を及ぼさなかったので置いておくとして、英語史上重要だったのがキャクストンという人が印刷術を導入し、チョーサーの著作などを出版したのであります。つまり、チョーサーの著作がイギリス全域に広まることで、チョーサーの英語がこの時代の標準的な英語の見本となったわけです。


 ○古英語と中英語の違い
 今、簡単に述べた歴史の通り、中英語の時代では国の中央である貴族、王族の間ではフランス語が使われていました。そうして中心で見本となる英語がなかったために中英語には方言が横行し、非常に統一感のないものになりました。
 中英語のかなり最後の方で出てきたチョーサーの英語が標準的な中英語と言われるのは、それまでの英語があまりにまとまりに掛けていたからであります。

 言語学的に古英語と中英語の違いを述べると、文法のさらなる簡略化がなされたことにあります。
 まず名詞の「性」が無くなり、複数形にする際にも少数の例外を除いて「s」を語尾につければよくなりました。形容詞の変化も、それから不規則変化も減少し、これ以降流入してくる動詞は原則的に規則動詞となります。
 古英語はドイツ語の一種の方言のようだ、と述べましたが中英語は明らかにドイツ語とは一線を画した存在になるわけです。
 実は、この簡略化には理由がありまして。中英語を喋っていたのは主に民衆です。民衆は知識階級のように学問にこだわることもなく、簡略化できるところはどんどん簡略化して行ったのです。
 中英語の大きな要因たるフランス語の流入も民衆から始まりました。民衆はフランス語を喋る上層階級に仕えており、当然の如く多少の接触があったわけですが、民衆はその柔らかい言語感覚で、上層階級の使う単語を自分達の英語に吸収していったのです。

 ○英語に流入されたフランス語
 先ほどは敢えて触れませんでしたが、中英語時代においてフランス語が多大な影響力を発揮したことは言うまでもありません。
 たとえば、民衆を管理するための行政用語「government(政府)」「administration(行政)」「tax(税)」。「duke(公爵)」「prince(王子)」「marquis(侯爵)」「baron(男爵)」などの階級用語。法律用語なども全てフランス語から輸入したものです。またイギリスはフランスのノルマンディー公ウィリアムに武力制圧されたのですから、軍事用語、たとえな「war(戦争)」「peace(平和)」「army(陸軍)」「navy(海軍)」などの単語もフランス語からです。
 教会用語「Creator(想像主)」「Savior(救い主)」「miracle(奇跡)」「faith(信仰)」などもフランス語からの流入ですが、これは元からあった単語をそっくりフランス語から入れ替えてしまったのです。
 他にも、フランス語からやってきた単語の中で、既にある単語が重なる場合が多々ありましたが、それはそっくり入れ代わるか、またはニュアンスの違う単語として共存する場合もありました。例えば「crime」と「sin」です。「sin」はオールド・イングリッシュ起源の単語、「crime」はフランス語起源の単語で、両方とも「罪」という意味を持っています。ところがこの単語に含まれているニュアンスは微妙に違っており、法律上で定められた罪を「crime」。定められていない、良心を裏切る罪、大抵は宗教上の罪となるわけですが、そちらのほうは「sin」を使います。
 他にも服飾関係の言葉、色、学芸関係その他いろいろ、多方面においてフランス語が大量に入って来ており、現在の英語にてフランス語起源の単語は6割以上であると言われております。
 しかし、使用頻度となると話は別で、傾向的に言うと日常で交わす汎用会話はゲルマン起源の単語が多くなり、話が専門的になるに従ってフランス語起源の単語が増えて行くのです。


 たかが一冊の本の要約とタカを括って取りかかってみたのですが、意外にハマってしまい、時間を喰ってしまったので、今日はここまでとしますが、次回は大母音推移から始まる近代英語が現代英語として定着して行く様を紹介したいと思います。




 本当に途中で終わったよこの人!
 だって、5時までやっても中英語が終わらなかったんだモン。


 以上、今回のゼミ発表の原稿でした。
 はい、これをまんま読みました。別にレジュメを作って配付してあります。


 
しかし学校の課題でつくった文書をこんなふうに公開しているのはきっと俺だけなんだろうなァ。





web拍手レス(某永遠に十八歳のオンライン作家さんみたいに洒落たコーナー名付けたいなぁ)

6月22日の分

>「質問です!英語と仏語の関係ってどんなものなんですか?教えてg○o!」

 答えから言いますとイトコ同士のようなものです。
 英語と仏語は両方ともインド・ヨーロッパ祖語を起源としているのですが、その後別れてゲルマン語派に属する英語に対し、仏語はラテン語派に属します。
 で、中英語の項で述べている通りノルマン・コンクエスト以降、英語には仏語が大量に流入するわけですが、これはイトコ同士が結婚するようなものですな。
 ちなみにドイツ語やオランダ語は英語と同じゲルマン語派出身なので兄妹のようなものです。

6月23日の分

>「前転なのにケツつくのか?」

 開脚前転って、最後ぴたっと立つのが難しいじゃないですか。勢いよすぎて前につんのめっちゃったり、逆に勢いが足らないと尻餅ついたり。

>「日記のアンタが素だと思うと笑える。毎日見てるw」

 毎度ありがとうございます〜。
 僕はいつだって素デスヨ?

>「ああ、そうだ。しずかちゃんの苗字は源だよ。たぶんw」

 ああ、そうだ! 源だ!
 どうも「しずか」というと、“工藤”(@キムタクの奥さん)か“城之内”(@遊戯王)がちらついて中々思い出せませんで(嘘)。


6月24日の分

>「○○んとこのバナー新しいのあるよ」

 あ、ホントだ、綺麗。
 また、暇を見て替える、と言いたいんですけど、旧バナーの方がサイト名分かりやすいんで、こっち使っててもいいですか?

>「今、リンク見ててセンスのなさに愕然としたw」

 あのバナーの話ですか?
 それともそちらのリンクの話ですか? 

 もしや僕のリンクページの話!?(がぁん)

>「暗くて悪かったなw」

 アレは別にいいって言ってたでしょー!?

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