呪縛の蝋
4
高野日奈、当時は二十二歳、素朴な可憐さはもとより、よく気がつき、村の誰もが彼女の幸せを願ってやまない器量よしだった。家が近かった赤羽とは幼いころからの付き合いで、その関係はごく自然に恋人同士となっていった。 そのころの赤羽はすでに大学院生で、大学近くの下宿に一人暮らしをしていたが、長期休暇となれば家に戻っていた。
「俊ちゃんったら、帰ってくるたびに栄養失調になって帰ってくるんだから。お勉強も大切だけど、体を壊したらそれもできなくなるのよ」
講座に入って自分のしたい勉強ができるようになってからというもの、研究にのめりこむあまり、食事をおろそかになりがちだった赤羽が帰ってくるたび、そう言って腕によりをかけたご馳走を作ってくれたものだ。 高校を卒業した後、地元で働き始めた日奈であるが、このときすでに赤羽とは博士号を取って講師として働き始めた折には結婚しようと約束をしていたのである。しかし、それが果たされることは無かった。
三十年前の夏、修士論文が佳境を向かえ、夏休みに入ってもなかなか地元に帰らなかった赤羽が実家に戻った盆の白灯祭も間近に迫った8月の半ばだった。 赤羽を迎えた日奈の隣に一人の男が立っていた。この田舎には珍しく白い肌をもち、顔立ちが整った、さぞ女達が騒ぎそうな端麗な容姿。
「俊ちゃん、覚えてない? ほら、伊戸部さんとこの息子さん。中学までこの村にいた―――」
日奈の紹介で、ようやく赤羽はその男のことを思い出した。伊戸部礼二、赤羽と同じ年でこの村の蝋人形館の蝋人形職人をやっている伊戸部宗太郎の息子だ。 親の血筋か、村の中でも抜きん出た器用さと美的感覚を備えており、絵画のコンクールか何かで入賞し、父親以上の蝋人形職人となるべく中学卒業と同時にイタリアに修行に出ていた。 今思えばその年の違和感の始まりはそこからだったはずだ。ところが旧友に会え、イタリアの様子などを聞いて話が弾んでいるうちに、それに気づけなかった。
その違和感がはじめて赤羽の心を掠めたのは、帰ってきたその日の夜だった。いつもは、勉強にかまけてきちんと食事をとらない赤羽を叱りつつ、腕を振るってくれる日奈だが、この年に限って叱ることも食事を作ることもしなかったのである。 単に仕事や白灯祭の準備で忙しいのだろう、とこの時の赤羽は結論付けた。今年は帰ってくる時期が時期であっただけに、仕方の無いことだと納得してしまったのだ。
違和感が疑念につながったのは、その年の白灯祭だった。赤羽と日奈は例年通り二人で祭を回っていたが、どうも日奈の様子がおかしい。どこか口数が少ないうえに、時々他の考え事に気をとられているようだ。 どうかしたのか、と聞いても日奈はなんでもない、とその都度苦々しさを帯びた笑みを返し、余計に赤羽の心配を募らせた。 そのときから、赤羽は何かと日奈に対して気を配るように心がけることにしたのだが、肝心の日奈は盆が終わると朝に仕事に出たまま、なかなか帰ってこない。日奈の両親に聞いてみても、このところの帰りの遅さは不可解に感じているだけで、理由などは聞けなかった。
ある日、赤羽は仕事の定刻の少し前から、日奈の仕事場の前を見張っていた。聞けば日奈の仕事はあまり残業がないタイプのものらしい。そこで、仕事の後彼女がどこに向かうのか後をつけてみようと思ったのだ。
定刻をすこし過ぎると帰り支度を済ませたらしい日奈が仕事場から出てきた。赤羽は見つからないようにそっと彼女を尾行したが、彼女が歩くのは村に帰る道である。今日は普通に家に帰るつもりなのかと、なおも付いていくと、不意に日奈は帰路から外れた。そして彼女がたどり着いたのは、村の蝋人形館だ。 玄関まで着くと、伊戸部礼二が日奈を迎え、二人して中に入る。どくり、と痛みを感じるほど心臓が大きく鼓動したが、おそらく蝋人形か絵かのモデルになっているのだろう。ここのところ帰りが遅かったのもいつもここによっていたからに違いない。そうして無理矢理自分を納得させたが、心の痛みは消えそうにない。 赤羽はこの感情の名前を知っていた。これが「嫉妬」というものか。あまりにも当たり前に恋人同士になっていたために、今まで危機感など抱いたことが無かったのだが。 ならば、と日奈が出てくるまで待とうとしたのであるが、運命が彼をあざ笑うがごとく、日奈はその晩に限ってその蝋人形館から出てくることはなかった。
激しい落胆が彼を襲っていた。いくらモデルだろうと朝まで付き合うことはないだろう。つまり二人は“そういう関係”である可能性は極めて高い。だが、まだ信じたい。日奈を失うことなど受け入れたくない。彼の人生では女性は彼女だけ、愛する相手も彼女だけ。一生涯だ。失いたくない。失えない。 日奈を問い詰めようか、それとも伊戸部のほうを責めようか。ともかく、ここで静観しているようでは話にならない。 とりあえず、後をつけていたことは伏せて、日奈に夕べどこにいたのかを尋ねることにした。しかし、彼女は目をそらしたまま答えようとしない。そこで、伊戸部の名前を出した。尾行がばれてもいい。はっきりさせようと思った。 伊戸部に気持ちが傾いているのか、と聞くと、日奈は激しく首を振った。
「違う! 私が好きなのは俊ちゃんだけよ! それは本当よ……信じて……」
その激しい否定に安堵を覚えた。嘘ではない。少なくともそう信じたい。では何故、とさらに尋ねようとしたとき、異変は起きた。 日奈の顔は青ざめ、呼吸がし辛いのか胸を押さえて、うずくまる。大丈夫か、と声をかけると、日奈は部屋の隅に置いてある自分の鞄を指差して答えた。
「薬……、薬をとって……」
日奈が病を患っていることに衝撃を受けつつも、鞄をまさぐり、薬らしきものを手にしたそのとき、赤羽を更なる衝撃が襲った。 その薬というのは、注射器とセットになっているものだった。注射器つきの薬などまともな病院や薬屋では処方しない。そして、今の日奈の症状―――まず疑いなく“禁断症状”だ。
結果的に、赤羽はまず落ち着いて話をするためにその薬を注射してやった。 そして、まず日奈に話したことは、彼女が「薬」と呼んでいるものの正体である。そのときの彼女の表情を見ると、日奈がそれが麻薬であると認識はしていなかったようだ。三十年前のこの片田舎では、麻薬のことなど知らないものがほとんどだったのである。 彼女にこれを与えたのはやはり伊戸部であったらしい。精神的にショックを受けていた彼女にこれ以上問いただすのは酷だと考えた赤羽はとにかく、しばらく耐えれば禁断症状からは抜け出せることと、二度と麻薬を摂取するなと言い置いて、彼女の両親に事情を話しに離れた。
ここで、彼女から離れず見守っていれば、彼女は守れたのかもしれない。だが、彼女に対する気遣いよりも伊戸部に対する怒りのほうが大きかった赤羽は、彼女を見守る、という一番大事なことを見逃し、両親に話をしている間に彼女が部屋を抜け出したことにも気づけなかったのである。
日奈が部屋からいなくなってしまったことに気づいたのは、その日の夜、日奈の持っていた薬を持って、伊戸部が麻薬を扱っている事を警察に告発しに行った後だった。その際、警察官が気になることを言っていたのである。
「伊戸部礼二か……君、礼を言わせてもらうよ。これで彼に家宅捜査を掛ける口実ができた」
先ほど、日奈の両親に相談した際、去年の秋ごろから次々に村の娘が五人、行方不明になっているという事実を聞いた。村は狭く、消えたどの娘も日奈とは親しかったため、かなり気落ちをしている様子だったと話していた。 その失踪事件が始まった時期と、伊戸部礼二がイタリアから帰ってきた時期と重なるために、警察は彼を疑っていたらしいが、死体も見つからず、また、彼を疑うにも証拠・証言があまりにも少なかったため、家宅捜査も出来なかったのだという。
姿を消した日奈が伊戸部の元に向かったのは明らかであったため、赤羽は息が切れるのにも気づかない勢いで蝋人形館へと駆けていく。今までの五人の村娘の失踪事件。伊戸部が犯人であった場合、おそらくその五人はもう生きてはいまい、と警察は考察していた。その事実が、焦燥感が彼の体を駆り立てていた。 伊戸部が展示スペースの奥にある階段を下った先にある地下室を作業室として使っていることは知っていた。扉を開け、転がるようにその階段を駆け下りて、赤羽はその場で固まった。 薄暗い電灯の下で、ワイングラスを傾ける伊戸部、その向かいに座っていたのは、赤羽に今まで向けていたものとはまるで性質の違う、よそ向けの微笑を顔に貼り付けた“高野日奈”だった。
「喜ぶがいい。君の愛する彼女が永遠の美を手に入れたことを」
赤羽が突然やってきたことにまるで動じた様子も見せずに伊戸部礼二は言った。
「元々、彼女が余計なことに首を突っ込んでいたのがいけなかった。例の失踪事件を追っていたらしいが、中々手がかりが見つからなくてね、気落ちしていたので、少々薬を分けてやったらいたく気に入ったらしくてしょっちゅう相談をしにきてたよ」
何のつもりか、ぺらぺらと上機嫌でしゃべり続ける伊戸部の言葉はほとんど聴いていなかった。
何だ、これは。
薄い微笑を浮かべたまま微動だにしない日奈の向こう側で、同じように椅子に座っている娘が五人。
何だ、これは。
震える足を何とか前に出し、どうにか日奈に歩み寄った。だが、正面で視線を合わせても、まったく反応がない。日奈、と名を呼び恐る恐る、彼女の顔に触れた。
弾力と熱を失った肌―――明らかに、人のものではない。
その瞬間、赤羽は悟った。彼の唯一無二の恋人、高野日奈を失ってしまったことを。
「彼女は、君のことばかり話していたよ。さっきここに来たときも、こんな薬に身を汚してしまって、君に申し訳ない、そう言っていた。相当悔しかったんだろうね、君を落胆させてしまったことが。何を思い余ってか、僕に襲い掛かってきたから、蝋人形にしてやったんだ」
全身から力が抜ける心地がした。膝が崩れ、その場に座り込んでしまう。事実を拒絶し、嘘だと自分に言い聞かせることもできない。「心にぽっかり穴が開く」ということを赤羽は身をもって知った。
「何を嘆いている? 君は彼女を失ったわけじゃない。ここにいるじゃないか」
伊戸部は隣に座る日奈を一瞥して言った。
「むしろ喜んだらどうだ? どれほど美しくても年をとればやがて誰もが醜く変わり果ててしまう。だが、こうして蝋人形にすることで永遠の美しさを手に入れることが出来るのだから」
だが、もう日奈は自分に向かって話しかけることはない。体を気遣い、料理を作ってくれることもない。その空っぽな微笑のまま、豊かに感情表現をすることもない。
「同じ体になれば、永遠に一緒にいられる。彼女が動かないことで嘆くのならば―――」
底冷えのする眼を細め、狂気じみた笑みとともに伊戸部が続けた言葉は、耳ではなく心に直接届くような妖しい響きを持っており、今でも録音でもしたかのように脳裏に焼きついている。
―――お前も蝋人形にしてやろうか?
「気がついたら、蝋人形館の外に駆け出していたよ。要するに逃げたんだな。もう動かない彼女からも、得体の知れない伊戸部からも」
彼が、高野日奈を失った翌日、麻薬取締法違反の容疑で家宅捜索令状を持った警官たちが、蝋人形館に踏み込んだが、すでに伊戸部礼二の姿はそこに無かった。その代わりに、鏡で写したかのような伊戸部の蝋人形が残されていたという。 同時に、高野日奈をはじめ、今まで行方不明であった五人の村娘の蝋人形が伊戸部の作業室で発見された。しかしながら、実際の身柄が見つからず、この事件は失踪した娘たちが蝋人形になって帰ってきたという奇怪な事件として、当時はずいぶん話題になったらしい。 その後、“人体を蝋人形にする魔術”を研究していたという伊戸部礼二の手記が見つかり、この村ではこの蝋人形が実際に失踪した娘たちなんだと信じられている。
「だが、魔術や伊戸部などはどうでもいい。あの事件で悔やまれるのは唯一つ―――大切な人を守りきれずに失ってしまったことだ」
赤羽教授は三十年たった今でも変わらず微笑み続ける高野日奈の蝋人形の髪を弄びながら、語り終えた。
「……それで、その伊戸部サンの蝋人形はどこにあるんですー?」
しばらくの沈黙の後、千鶴が尋ねた。話には出てきたが、ここにあるのは六人の村娘の蝋人形だけだ。見渡す限り、それらしきものは見当たらない。
「ああ、あの中だ」と、教授が指差したのは、部屋の隅に置かれた長方形の箱だった。確かに人一人は入りそうだが、よくよく見てみると、箱には鎖が巻きつけられ、それが錠前で閉じられている。また、箱の表面にはいくつもの魔術的な文様が施された札が貼り付けられていた。
「やったことがことだからね。村に忌み嫌われて、あんなふうに封印されてしまったんだよ」
封印、恨み、怨念、そういった言葉が不意に脳裏に浮かび、背筋を寒気が走る。この現代にここまでオカルトじみた話が実在していたとは。
「青山君」
不意に名前を呼ばれ、千鶴は「はい?」と返事をしながら赤羽教授の方に向き直った。
「君の探究心は学者として、実に良い資質であるといえるが、ここで一つ忠告をしておこう」
旧白灯村の人たち、特にそこにいる蝋人形の彼女たちの肉親は、ここに彼女たちの姿があり、そして死体が見つからないことで、“まだ彼女たちはここにいる”という希望を持っている。 いかに千鶴が好奇心に任せて、真実を暴くことは、その希望を打ち壊すことになりかねない。いくら学者でも、人の心の支えを取り払ってしまう権利はない。教授の言いたいことはそういうことらしかった。
「もし、これ以上この事件について調べたいのなら好きにしたまえ。村の人は非協力的だろうが、何とか力を貸してもらえるように、取り計らってもいい。だが、真実を暴きだした後の責任をとる覚悟はしておくように」
その口調はいつもどおり紳士の温和さを持っていた。だが、千鶴にはとても厳しい響きに聞こえた。
|
|