綿霧岩
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誕生日に有り難く頂いた緑茶があった。 それは緑茶をくれたその方が、私をイメージしたときに、カタギリさんは緑茶を飲む人(であろう)という予測があり、私のもとにやってきたのだということはわかっていた。
しかし、私は緑茶を飲む人ではなかった。
いや、緑茶がそこにあれば飲みはするけれど、日常的に、家で好んで飲むことはこれまでなかった。
味が嫌いなわけではない。 むしろ好きだ。 ではなぜ、家で緑茶を飲まないのか?
私にはある思い込みがあった。 「私は自分の家で、緑茶をおいしく淹れられない。」
きっかけはよくわからないけれど、なぜだかそう思い込んでいた。 実際、昔家で淹れてみて、おいしくなかったのかもしれない。
とにかくそんなわけで、有り難く頂いた緑茶は手つかずのまま、台所のテーブルの上に何か月か置かれていた。
私はその何か月かの間、緑茶の箱を何度か手にとってみた。 そして箱を開け、「おいしい淹れ方」と書かれた箱の裏の説明書きを眺めた。 そして箱を元通りにして、またテーブルの上に置く。
何度かそんなことをしていた。
本日、寝転がって休憩しているときに、何か飲んでブレイクしたいなと思った。 冷蔵庫の中には、アイスココアと牛乳がある。 ここ数日はそんな甘くて冷たいブレイクタイムを過ごしている。 なんとなく、今日は、もう少し違う、甘すぎず冷たすぎない何かを欲していると感じた。
ふと、あのテーブルの上に置かれた緑茶の、賞味期限が近付いていることが頭に浮かんだ。
よし。
私は決心した。
今がそのときだ。
箱の裏の説明書きを再び読んだ。
「沸騰したお湯を湯呑に入れ、75℃になったら茶葉を入れた急須に移し、一分半。」
75℃の温度をはかる手段は無かった。 一分半をはかるストップウォッチも今は別のことに使用中で使えない。 (布ナプキン制作の水通しのやり直し中だった)
頼れる器具は、ない。
それでもやろう。
もともと茶の達人でもなんでもないわけだし、 仮においしく淹れられなくてもいいじゃないか。
アイスココアも牛乳も嫌なんだから、結果はどうあれやってみようじゃないか。
よくわからないテンションだったが、表面上は淡々と進行していた。
75℃というのがどの程度の熱さなのか、風呂を思い浮かべて想像した。 もしも風呂の湯が75℃なら相当熱いだろう。 しかし、沸騰時の100℃との差はどのくらいなのだろうか。 わからなかったが、心を鎮めて、こうなったら温度がどうこうではなくお湯が教えてくれるかもしれない!と閃き、お湯が「今よ!」と言ってくれないかな、とお湯に集中してみた。 お湯の声は聞こえなかったが、なんとなく、このくらいかな、と思ったところで急須に湯を移す。
一分半を心の中で数えてみた。
外をざあざあ降る雨音が、数を数える頭の声と一緒になって聞こえてきた。
それはなんだか力の抜けた、まさにブレイクした気持ちの良い不思議な時間だった。
そしてお茶が入った。
そのお茶は、大変おいしかった。
お茶をくださった方、本当に有難うございます。
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