読売新聞夕刊の「小町Vote」欄に、旅館で心付けを渡すか渡さないかを問うたアンケートの結果が載っていた。
ふと思い出したのは、友人が温泉旅館に泊まったときの話。部屋に案内してくれた年配の仲居さんに心付けを渡したのだが、その女性の顔を見たのはそのときだけ。食事を運んだり布団を敷いたりと面倒をみてくれたのは別の仲居さんで、その人からは「お気持ちをいただいたそうで……」という言葉はなかったらしい。
「部屋に案内しただけで担当でもないのに、黙って受け取るなんてあり?」
彼女が憤慨するのも無理はない。
海外のホテルやレストランで支払うチップがサービスへの謝礼であるのに対し、心付けは「これからお世話になりますのでよろしく」という挨拶。「よくしてもらえるかも……」と見返りを期待する気持ちもちょっぴりこもっている。だから宿に着いたら早めに、部屋付きの仲居さんに渡すのだ。
友人が言うように、ぽち袋の中身を部屋に案内しただけの仲居さんが一人占めしたのだとしたら、それは意味を成さなかったことになる。
ところで、私は心付けを渡したことがない。それをすることによっていらぬ勘ぐりをしてしまうのがイヤだからだ。
夜食に果物の差し入れがあったり、朝出かけるときにおにぎりを持たせてくれたり、仲居さんが親切だったりすることを「心付けの効果かも?」とはあまり思いたくない。よくしてくれることは心付けとは無関係かもしれないのに、それが頭をよぎるのはちょっとさみしい。
逆に、がっかりな接客だったときには「心付けを渡したのに……」と余計にモヤモヤしそうだ。
であれば、宿泊中になにか特別な計らいを受けることがあったら感謝の言葉とともに帰り際に渡す、でいいんじゃないか。
と私は思っているのだが、一緒に旅行をする人もそうとはかぎらないから相談する。しかし、「そうだね、いくらか包もうか」と返ってきたことは一度もない。
小町Voteのアンケートで、「心付けを渡す」と回答したのは二十六パーセント。
ふた昔くらい前にはお茶を入れてくれたあとも世間話をつづけてなかなか退室しない仲居さんがいたけれど、最近はみなさんサッと引き上げていく。いまどきの客に期待してもムダ、と心得ているのかもしれない。
ところで、病院で働いている私が「心付け」と聞いてぱっと思い浮かべるのは患者から医師へのそれである。
「謝礼は受け取りません」と貼り紙をしてある病院が多いが、友人は自身が入院したとき、主治医に渡すよう親に言われたそうだ。
「でも病院の規定で受け取らないことになってるから、断られると思うよ」
「それでも気持ちだけは見せておいたほうがいい」
というやりとりがあったのだが、実際は拍子抜けするくらいあっさり受け取ったという。
「あ、どうもって感じで、困ったふうでもなくありがたそうでもなく。あの『心付けお断り』はやっぱり建前なんだね」
以前、新聞で「父が入院したとき、横柄だった主治医は母が謝礼金を渡したとたん、えびす顔になりました」という女性の投稿を読んだ。
私も法事の席で、親戚が「付け届けをしたらコロッと態度が変わってね、あれにはびっくりしたよ。やっぱりしとかんとあかんねえ」と話しているのを聞いたことがある。
心付けのあるなしで患者への接し方を変えるなんてあるまじきことだが、そういう医師が現実にいるらしい。
「どうぞよろしくお願いします」を込めた心付けでも、旅館の仲居さんに渡すそれと医師に渡すそれとでは切実さが違う。
する、しないで治療に差をつけられることはないだろう……とは思えど、それを受け取る医師がいるかぎり、患者やその家族には心付けが“打てる手”のように見えてしまう。これはとても酷なことだ。
投稿の文章はこうつづいた。
入院、手術費用の他に心付けまで必要となれば、負担が大きすぎる。医療のあるべき姿を訴え、渡さないように言ったが、手術前で弱気になっている母は『理想と現実は違う』と言い、渡そうとした。 (女性・四十五歳)
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封筒の中身は単なるお札じゃない。「どうも」と受け取る医師はそれをどれだけわかっているのだろう。