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2024年05月30日(木) 「野良猫に餌をやらないで」にもやもやする理由

植え込みの中で倒れている子猫を見つけ、病院に連れて行ったという話を同僚から一週間ほど前に聞いていた。彼女とシフトがすれ違い、その後どうなったんだろうと気になっていたのだが、昨日ようやく続報が届いた。
低血糖症との診断で入院となったのであるが、ブドウ糖の静脈注射で意識が回復。いまは同僚の家で療養しているそうだ。

病院に迎えに行ったとき、ショックなことがいくつもあったと彼女が言う。
まず、生後三か月くらいかなと思っていたら一歳を過ぎた成猫だったこと。
「栄養失調で大きくなれんかったんやね……。本当に骨と皮で、なでたら背骨がごつごつしてるねんもん」
おなかにはマンソンもいたらしい。ヘビやカエルを食べることで感染するサナダムシだ。
そんなもので飢えをしのいでいたのかと驚いたが、便からビニール片が出てきたと聞いて胸が痛くなったという。
低血糖症の原因は絶食状態が長くつづいたこと。空腹のあまり食べ物の匂いがついたビニール袋を食べてしまったんだろうか。



「野良猫に餌をやっている人がいる」と聞いたら、たいていの人はいい顔をしない。
多くの人にとって野良猫への餌やりは“迷惑行為”で、私が住む自治体もサイト上で、
「餌を与える方は飼い主と同等の責任を負うことになります。トラブルが発生した場合、損害賠償を請求されることがあります」
と釘を刺している。
しかし、私は「野良猫に餌をやらないで」という言葉を見たり聞いたりすると、いつももやもやする。

餌やりをしてはいけないと言われる一番の理由は、「不幸な命を増やすことになるから」だろう。
家で飼われている猫が十五年、二十年生きるのに、野良猫の寿命は数年と言われている。ゴミ捨て場には重りのついたネットが設置され、街のどこにもゴミ箱はない。一日歩き回っても漁れるゴミなど見つかるまい。
虫やカエルを探すひもじい生活が待っているとなれば、「不幸な命」とみなされるのも無理はない。
猫は繁殖力が強く、一年で十五匹の子を生むという。
「餌やりがかわいそうな猫を増やしてしまう。その“善意”は猫のためにならない」
はそのとおりだと思う。

だから、やりきれない。
自治体は「生殖できない猫に限って給餌を行ってよい」と言う。そりゃあ避妊・去勢手術をして、地域猫として一代限りの生を大切にしてやれたらどんなにいいか。しかし、見ず知らずの猫のために捕獲器を調達し、病院へ連れて行くというお金と手間暇(つまり愛情)をかけられる人がどれだけいるだろう。
結局、大半の野良猫は餌をもらえないということだ。
いや、地域猫だって状況は大して違わないかもしれない。
野良猫の保護活動をしている知人は仲間と持ち回りで地域猫公園で餌やりをしている。朝五時に行き、彼らが食べている間に公園の掃除をする。フンの始末だけでなくタバコの吸い殻や空き缶も拾い、帰るときには餌の容器を片づける。それでも、「野良猫なんかに餌をやるな!」と怒鳴られたことが何度もあるそうだ。地域猫だと説明しても、「野良猫は野良猫だ」と返ってくる。
「猫が増えるから」ではなく、「居つくから」という理由で餌をやってくれるなと考える人も多いということだろう。

ただそこにいるだけで迷惑がられ、「餌やり禁止」の札が立つ。それが外で生きる猫たちの境遇。
「ぼくらだって生まれたくて生まれてきたんじゃない」
という声が聞こえるようだ。
そうだよね、だって野良猫は人間が生みだしたんだから。あなたたちはなにも悪くない。
そして、私の心は「かわいそうな猫を増やしちゃいけない」と「そのためにいま生きている猫には死んでもらいましょう、ということか」の間で千々に乱れるのである。

以前、テレビでトルコの野良猫事情を紹介する番組を見て、衝撃を受けた。
街の至るところに餌と水が置かれ、空のペットボトルを投入するとドライフードが出てくる自動販売機も設置されている。それに地域住民の多くがカバンの中に餌を常備しているから、彼らが食べ物に困ることはないだろうと言う。
自治体が用意したハウスがそこここにあり、病気やケガをした猫がいたら病院へ運ぶ。緊急の場合は野良猫・野良犬専用の救急車が出動し、治療費は全額政府負担だそうだ。

トルコの猫だって排泄物はやっぱり臭いし、ノミもいれば毛も抜けるはず。発情期にはにぎやかに鳴くだろう。けれども、彼らは「そこにいて当たり前」と思われている。
カフェの席を占領していても商品の上に鎮座していても追い払われたりしない。それどころか、売り場やショーウィンドウの一角に猫ベッドを置いてくれる店もある。駅の改札機の上で眠っている猫を乗客がICカードをかざしがてらなでていくのを、YouTubeなどで見たことがある人もいるかもしれない。機械のぬくもりが心地良いのか、トルコのあるあるだそうだ。
物音に敏感で常になにかを警戒している、私の知る野良猫の姿とはまるで違う。
ああ、そうか。私たちは「不幸な命」という前提で野良猫を語る。でも、そうではないんだな。
飼い主がいないから、路上生活だからではなく、人間に望まれない存在であるとき、彼らは「かわいそうな猫」になる。社会によって幸せにも不幸にもなるんだ。

トルコでは野良犬も同様に扱われているという。
人が完璧に快適で清潔でストレスフリーな暮らしを求めたら、野良猫や野良犬は許容できないだろう。でも、“厄介者”として排除することで解決を図るのではなく、自分たちのスペースをちょっと譲って共に生きようとする社会には精神的な豊かさを感じる。
路上の動物に手を差しのべ、その生活と命を尊ぶ人たちは子どもやハンディキャップを持つ人、お年寄りにもやっぱり優しいんじゃないだろうか。

【あとがき】
庭によく来ていた猫が皮膚病にかかり、病院に連れて行くために保護したことがあります。まったく人馴れしていない猫を捕獲し、治療を受けさせるのは簡単なことではありませんでした。家には三段ケージを用意して、環境と人間に慣れてもらわなくてはならない。二日二晩飲まず食わずで哀しい声で鳴きつづけ、胸が張り裂けそうでした。
あれから四年。いまも抱っこはできないけれど、ソファでへそ天で眠る子になりました。