ふだんスマホをほとんど使わない私であるが、最近アプリで漫画を読む楽しみを知った……という話を少し前に書いた。『ドラゴン桜』を読み終わり、いま読んでいるのは『静かなるドン』だ。
表の顔は女性物の下着メーカーに勤めるさえないデザイナー、その正体は一万人の子分を持つ暴力団・新鮮組の三代目総長という主人公がカタギとヤクザ、ふたつの世界で繰り広げる物語なのだが(なんて説明の必要はないか。大ヒット作なんだってね)、魅力的なキャラクターがたくさんいて、すっかりハマってしまった。
毎朝六時に六話分無料で読めるようになる。だから職場に向かう途中、つづきが気になってしかたがない。ものすごくいいところで話が終わっているときなど、「家に帰るまで待ちきれない!」と思う。
……と書いたら、「だったら電車の中で読めばいいじゃない」という声が聞こえてきそうだ。
それがですねえ、厄介なことに私の中には「早く読みたい!」だけでなく、「でも人前では読みたくない」という頑なな気持ちもあって、通勤電車や昼の休憩室ではアプリを開けないのである。
何の漫画を読んでいるか知られたくないから、ではない。漫画を読んでいる姿を人に見られたくないのだ。
「漫画を読む」という行為に妙に引け目を感じるのは、子どもの頃に大人から「漫画なんか」と刷り込まれたせいだと思う。
小学校の先生は「漫画を読むとバカになる」とよく言っていたし、親も私が友だちから借りてきたものを読んでいるといい顔をしなかった。昭和の人気番組『クイズダービー』のレギュラー回答者で漫画家のはらたいらさんは、その驚異的な知識量で“宇宙人”の異名をとったが、
「漫画家の地位が低かったため、自分ががんばれば世間の評価が変わると思い、必死で勉強した」
と言っていた。
たしかに当時は「漫画=くだらないもの」というのが人々の認識だった。
そのため、それを心置きなく読めるのは児童館くらいのものだった。そうして大人の目を避けながら読んでいるうちに、「漫画を読むのは褒められたことではないのだ」という意識が植えつけられたのだろう。
だから大人になってからも、通勤電車で漫画雑誌を読んでいるサラリーマンがいると冷めた目で見たものだ。漫画を読むこと自体ではなく、いい歳をして家に着くまで読みたい気持ちを我慢できないこと、人からどう見えるかに無頓着なことにゲンナリした。
いまは「スマホで読むから目立たないし、みんなやっているんだから、かっこわるいとかはずかしいとかもう気にしなくていいんじゃないか」が頭をよぎることもある。「知り合いに会うかも」と思うと、実行には移せないのだけれど……。
あの頃、大人はどうしてあんなに漫画を悪く言ったのだろう。
絵で理解するため考えることをしなくなる、想像力がなくなるとよく言われたっけ。漫画を読むのに根気はいらないからそれに慣れてしまい、活字を読むのを苦にする子どもが出るのを危惧したというのもありそうだ。
でも私は大人になって、「活字は尊く、漫画は劣っている」なんてことはないと知った。「漫画なんか読まずに本を読め」としょっちゅう言われたが、小説でもくだらないものはくだらなく、漫画にも名作と呼ぶべきものはいくらでもある。
私の周囲には『キャプテン翼』や『タッチ』がきっかけでサッカーや野球を始めたという男の子がいっぱいいたし、私の同僚は『キャンディ♡キャンディ』の主人公に憧れて看護師になったそうだ。
息子の担任の先生が発行してくれる学級通信には、毎回のように漫画のワンシーンが引用されている。登場人物のセリフを通して、生徒にとって大切だと思うことを伝えてくれるのだ。
末次由紀 『ちはやふる』 7巻
森川ジョージ 『はじめの一歩』 42巻
作中の人物の状況や心情をイメージして自分に置き換えてみるというステップを踏むと、親や先生に理詰めで言われるよりもずっと、「ああ、本当にそうだよなあ」と思えるような気がする。
こういう面を評価しないで、とにかく子どもから漫画を遠ざけようとしたのが不思議でならない。
その「漫画なんか」と言われて育った子どもが親世代になり、漫画に対する世間の目はずいぶん変わったと思う。
日本の漫画が海外で高く評価されていることが知られるようになり、『鬼滅の刃』は老若男女に支持されて社会現象となった。もう「漫画=子どもとオタクが読むもの」ではない。
付き合い方次第で、害にもなれば為にもなる。これは漫画にかぎったことではないだろう。
うちの子どももやっぱりゲームやYouTubeが好きだが、約束事が守られていればそれらを悪者にする理由はない。彼らの毎日をポジティブなものにしてくれるアイテムであってほしいと思っている。