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2022年03月05日(土) 天職

夜勤の日は始業の一時間半前には病棟入りする。
勤務開始までに患者の情報収集や点滴準備をしておくためだが、それが済んだら私はその日受け持つ部屋をひと回りする。ひとりひとりに「今夜は私が担当です」を伝えるのだ。
その日もいつものようにあいさつに行ったところ、ある患者が開口一番言った。
「夜、トイレに行きたくなったら連れて行ってもらえる?」
午前中に別の病棟から移ってきた人で、私とは初対面である。いきなりのトイレの予約に驚きつつも、もちろんと答えると、
「でも、何度もお願いするかもしれないんだけど……」
とさらに言う。
「大丈夫ですよ。遠慮なくコールしてください」
すると、女性の表情がみるみる明るくなった。「夜間は看護師が少ないから、頻繁にトイレに呼ばれると困ります。患者はあなた一人じゃないんです」と言われたことがあり、以来消灯前におむつをつけてもらうようにしていたそうだ。
「でも、お昼の看護師さんが『今日の夜の看護師はこの病棟で一番優しい人』って言ってたから、思いきって訊いてみたの。よかった……」

日勤のとき、「今日の夜勤は誰?」と訊かれることがある。
患者の夜は長い。のどが渇いた、眠れない、おむつが不快、背中がかゆい、腰が痛い------そういうときに頼みごとをしやすい看護師かどうか気になるのだろう。
「トイレをお願いすると嫌な顔をされるから、夕方から水分を控える」
「迷惑をかけたくないからできるだけコールはせず、見回りなどで部屋に来てくれるのを待つ」
という話も聞くくらい、患者はこちらに遠慮しているのだ。

うちの文章を読んでくれている人にどういう印象を持たれているかわからないけれど、私は職場で「優しい」と言われることがある。
特別性格が穏やかとか思いやりがあるとか、そんなことはない。でも、イライラの沸点は人より高いような気はしている。
夜中に同じ人から何度もトイレコールがあると、「○○さん、トイレ二時間おきだよ」「行ったってちょっとしか出ないのに」と愚痴る同僚がいるが、輸液中だったり高齢だったりしたらトイレが近くなるのはしかたがないじゃない。
学生時代、課題のレポートを書くためにおむつをつけて排泄してみたことがある。あのとき感じたことを覚えているうちは、「夜は人手が少ないから、おむつでしてください」とは私には言えない。
おむつを使用中の患者からおむつ替えてコールがあると、「このパッドは三回分のおしっこを吸収できるから、毎回交換しなくても大丈夫です」と“説得”する人がいるけれど、布団が濡れなければいいって話じゃない、気持ちが悪いから早く取り除いてほしいんだ。
「また点滴抜かれた!」とカリカリしているのもよく見かける。私も「あちゃー。ルート取り直しか……」とがっかりはするが、「触らないでくださいって言ったじゃないですか」とブツブツ言われているのを見ると、気の毒になる。点滴ラインが目に入るところ、手の届く位置にあったら、そりゃあ「どれ、引っぱってみようか」となるわなあ。
やはり学生のとき、ベッドに横になりまったく動かずどのくらいいられるか試したことがある。自力で動けないというのがどういうことか知りたかったのだ。
ちょっとどこかがかゆくなっても掻けない、首や腰がだるくなっても寝返りを打てない。あまりに苦痛で三十分でギブアップしたことを思うと、
「△△さん、『水飲ませて』『体の向きを変えて』『湿布貼って』『背中がかゆい』って二十分おきにコールだよ。一回で言ってくれればいいのに」
に頷くことはできない。

患者の訴えに対して“イラッ”とすることがあまりないから、温厚でいられるのは当然といえば当然なのだ。
いままでいくつかの会社で異なる仕事をしてきたが、一番楽しかったのは接客業だった。のちに看護師になり、やっぱり自分は人と関わる仕事が性に合っていたんだとつくづく思った。
好きでやっているから、少々のことは苦にならないのだろう。



明日退院という患者がいると、仕事のあと部屋を訪ねる。
「転ばないように気をつけてね」
「ちゃんと外来を受診してくださいね」
「もうここに戻ってきちゃだめですよ」
かける言葉はそれぞれだが、良くなって自宅に帰る人にもリハビリや看取りのために転院する人にも、みんなに伝えるのは「ありがとうございました」。
それは、コンビニで袋を受け取りながら言う「ありがとう」とはまったく違う。
「いろいろなことを教えていただきました」
毎回、心からそう思う。

患者からの感謝の言葉がやりがいになっているという人もいるだろう。でも、私は自分が「ありがとう」をたくさん言える仕事であることがうれしいの。

【あとがき】
悲しいことも多く、帰り道で涙がこぼれることもあります。でも、自分に合った職業に就けるというのは一生のパートナーに出会えるのと同じくらい幸運なことだと思っています。